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10.修羅の如き

 



 ◎




 ヴァトナは木剣を正眼に構える。


 先程と同様にレーゼインは脱力したような体勢で迎え撃つようだ。敢えて誘っているのだろう。


 審判が試合開始を宣言すると同時にヴァトナは地を蹴る。剣を振るう速度は互角だった。カンカンカン、と激しく剣戟が舞う。


 剣士としては非力な方だが、速度と斬撃のしなやかさが秀でている。繋ぎ目のない斬撃の手数で圧倒する、というのがヴァトナの基本戦法だ。




 剣を振るう中でヴァトナは目を見張った。


 速さと柔らかさを、既にレーゼインは見切り、的確に対処しているのだ。


 カルナとの試合を見て、速度に長けていることは理解していたが、技に対しても造詣が深い。


 ならば、と――ヴァトナは一息吸い、木剣に力を込める。レーゼインより身体は大きいので力比べで圧倒できる、と判断した。




 しかし、速かれ遅かれその結論に至ることをレーゼインは予想していた。初めから待っていたのだ。波が揺らぐ瞬間を。


 それはカルナとの戦闘でも使った合気に通ずる技術である。


 ヴァトナの次の一手への呼吸を察知したレーゼインは転調の隙に一気にヴァトナの背後へ回り込んだ。




「ッ、それは――さっき見たッ!」




 予想外のはずだった。にも関わらず、ヴァトナは反応して身体を捻じ曲げた。


 賞賛に値する驚異的な反応速度。


 だが、そこにレーゼインはいなかった。


 代わりに、首筋に刃が触れている。




「……また回り込んだのか……それは……私の動きを完全に読んでなきゃできない……」




 ヴァトナは剣を腰に帯びた。それを降参と見なし、審判は本日二度目のレーゼインの勝利を宣言する。


 ヴァトナは礼をしてからレーゼインに問う。




「王宮剣術じゃなかったけど、何の流派なの?」


「我流だよ。剣を教えてくれる人はいなかったから」


「予測ができない訳ね……」


「普通が嫌いなんだ、私」


「それは確かに只者じゃないね」




 剣術と名乗れる程高尚なものではない。対人戦闘で勝つためだけにレーゼインが編み出した不意打ちに特化した技術の体系化に過ぎない。


 今やどうして完成させられたかは不明だが、前世の記憶から良いところを抽出して原型は作られた。




「じゃあ、三人目はー?」




 レーゼイン襲来から一〇分程が経過した。


 その間に幼い身体から発されたのはひたすらの異常性だった。カルナとヴァトナに一瞬で勝利しながら息一つ切らすことなく三人目を探す姿は戦闘狂のそれ。




「じゃあ、誰か指名するしかないな……どうしようかな」




 レーゼインが真っ先に探したのは女性だった。


 やはり、戦うなら美少女に限る。不躾に見定めているとレーゼインの小さな身体を影が覆い尽くした。


 顔を上げると、身長一九〇はありそうな巨漢に睨めつけられていた。




「誰?」


「さっきからピーピーピーピー五月蝿いんだよ。そんなに試合したいなら俺が相手をしてやる。どうなっても知らないがな」




 冗談のように筋骨隆々な頭の尖った男子生徒。手にしている木剣が玩具に見えてしまうサイズ感。顎髭を蓄えており、とても学生には見えない。レーゼインとは逆の意味で年齢詐称の疑いがある。




「ま、誰でも良っか。じゃあ、宜しく」


「一年風情が嘗めた口を……後悔しても知らんぞ」




 お約束のようはフラグを口にした大男はレーゼインの対面に立つと、厳かに抜剣した。


 実際、数年は剣術を学んでいただけはあり、高圧的な態度からは想像できない静謐さが刃に宿っている。




「試合開始!」




 審判の宣言から数呼吸――。


 男が滑るように接近し、剛腕の一刀を振り下ろす。フィジカルの差を考えれば、最善手。下手すれば一撃で終わることさえあり得る。


 レーゼインは寸前で助走のために一歩下がり、身体を捩じった。大きく息を吸い、回転と遠心力、体重移動を木剣に乗せて振り切る。


 一際大きい木剣同士の激突音。


 一方的に吹き飛んだのはレーゼインではなかった。


 おおお、という観客の静かな感嘆が上がる。




「な――」




 男子生徒は自分が後退させられたことに戦慄しているようだった。


 現実的に考えて、五〇センチも離れている相手に力負けするのはまずあり得ない。彼の動揺は極自然ことだ。


 レーゼインは不敵な笑みを湛え、剣先を男の額へ向ける。




「大口叩いておいてそんな程度かぁ、ちょっとダサいかも」


「貴様ッ、一度――」




 奥歯が砕けんばかりに食い縛って男は殴るように剣を振り切る。辛うじて剣術の枠に収まった一閃の袈裟斬りだ。




「――弾いたくらいで調子に乗るなァッ!」


「ハイ」




 レーゼインはテニスボールでも打つように首の後ろまで振り抜いた。今度はどちらも一歩後退する拮抗。次いで放たれた横薙ぎは下から打ち上げる。


 一瞬の空白――。


 大男は左足の踏み込みから本気の縦振りを脳天目掛けて繰り出す。レーゼインが互角のパワーを出す時には必ず助走が必要になる、その隙に潰す速攻の振り下ろしだ。




「ぬんッ――!」


「そうだよね」




 刃を触れ合わせた瞬間、レーゼインの下半身に凄まじい負荷が掛かる。


 男は剣から伝わって来た感触で打ち勝てる、と確信した。渾身の力を込め、少女を上から圧し潰す。


 少女は無感情に息を吐き、刃を側面である腹で滑らせた。剛剣の軌道が曲がり、切っ先が床にまで突き刺さる。


 レーゼインはがら空きの巨漢の首に刃を添わせた。誰が見てもわかる完膚なきまでの勝利。


 すぐさま審判が片手を挙げ、声を発する。




「試合終了、レーゼ――」


「ッ、ふざけるなァッ!」


「潔さのない男はただただ醜いだけだよ」




 剣を踏みつけるだけでつんのめりそうになり、男子生徒の足掻きは空回る。




「――イン以下略の勝利」


「クソッ、魔剣術だったら、この俺がッ……!」




 大男は屈辱と怒りに震え、衝動のまま床面に拳を叩きつけた。


 いつの時代も未知に敬意を払わない者は足下を掬われるのが道理である。


 彼にはわからないだろう。弱者が強者に勝つためには頭を使わなければならないことを。その理由を本能的に理解できない彼にはそこにどんな技術が使われているか想像すらできない。


 剣から足を退け、木刀を佩いたレーゼインは軽く肩を回した。




「――準備運動は終わりかい?」


「えぇ、まぁ」




 男性教諭に問われたレーゼインは返事し、全身の関節を解した。


 大男が背中を丸めて場外へ出ると同時に碧眼の優男が入場する。高級感のある艷やかなローブを脱ぎ捨てた。




「学院剣術八級の取得条件は七級以上取得者に三回以上勝利すること。九級以上取得者との一回以上の立ち会い――この場にいる九級以上は私しかいない」


「そういうことです。審判は他の方に任せても構いません?」


「では、カルナ君に任せることにしよう」




 第一回戦相手の美少女が審判を務める。


 先の三戦は手加減をしていたレーゼインだが、この男相手で同じことはできない。彼は学院剣術資格を超え、国から剣技を認められた数少ないマスタークラスの剣士だ。




「先程の三試合、どれも見事な腕だったよ。入学したてでそれだけの実力を有した生徒は数えるほどしかいないよ」


「いるにはいるんですね」


「現に目の前に。剣を交えたくて堪らなかった、君の本気を見せてくれ」


「本気ですか……胸を借りるつもりでやりますよ」




 そして、両者、抜剣。途端に顕出した戦闘力は武器が鉄製だ、という錯覚を観客に見せる。


 剣士は真っ直ぐレーゼインを見据えながら、名乗った。




「――ゾルステア王国流剣術『階梯級二段』グラン・ディティエル・レ―ディン」


「存じています」


「私も君を知っているよ――レーゼイン・アスタ・ヴァイススター」




 どちらも『八円剣』に名を連ねる名家である。貴族界では知らない者がいない有名人。放蕩娘と剣士とでは意味合いは一八〇度違うにしろ。


 どちらも口を噤み、静寂が漂い始めたところでカルナは一息吸って、叫んだ。




「試合開始!」








 ◎




 ――ゼントは、人よりも少しだけ運が良く、人よりも少しだけ優しいだけの少年である。


 これといって特徴ない人畜無害そうな顔はいつもより少しだけ引き締まっている。勝手に知らない学院を歩いているだけで悪いことにしている気分になっていたからだ。


 目的地は第三教練場。ゼントの手には一枚のハンカチ。




「平民の俺がこんなところにいても良いんだろうか……」




 しかし、穢れのない水晶のような瞳に迷いはなかった。自分の行動は正しいものだと信じ、その結果を受け入れる準備がある。


 学院の奥地に建てられている第三教練場に辿り着いてからも何度も場所を確認した。深呼吸を一度してから、意を決して扉を開く。




「失礼しま――」




 ゼントの声は誰に届くこともなかった。


 教練場にいた全員があることに夢中になっていたからだ。吸い寄せられるようにゼントも試合場の中央へ視線を向けた。


 そして、瞬きする暇のない絶戦に飲まれる。








 ◎




「――試合開始!」


「ッ――!」




 最後の『し』が発音されると同時にレーゼインはグランへと駆け出す。剣技では敵わない相手に長期戦は期待できない、と判断し、速攻で決める算段を立てた。


 グランが慣れる前にレーゼインにしかできない凶悪な技を決め続ける。


 まず狙うのは下段の下段。潜り込むように間合いに侵入、足首目掛けて木刀を薙ぐ。危な気なくバックステップで避けたグランに追随し、執拗に足を狙い続ける。




「これは……実践な基づいた、勝つための剣技だね」




 余裕綽々という風に分析するグランは二度目以降の攻撃は剣で防いだ。そこからは一歩も動かすことができなかった。




「一体どんな経験を積めばこの修羅の如き剣技を完成させられるんだい?」


「よく森に野盗がいたもので」


「恐ろしい野盗がいたものだ」




 レーゼインは一度、距離を取る。これだけ喋る余裕があるのだ、一度見せた小細工は通じないだろう。


 ――ま、及第点、ってところかな。


 普段はそんなに意識しない足下にも意識を裂かせただけで十分。




「では、次はこちらから行かせて貰うよ。王宮剣術のやり方でね――」


「――なっ!?」




 グランは五メートルという距離を一歩で詰めてみせた。レーゼインのように合気と注意力を使ったものではなく、シンプルな技術と身体能力で距離を潰された。


 振り下ろされた斬撃に触れた瞬間、絶対に打ち返せないことを理解した。レーゼインは攻撃を受け流す以外の選択肢を捨てる羽目になる。


 受け流す、と言っても先程の大男の時のようにはいかない。あれは力任せに振ったものだから簡単にいなせただけであり、グランの技と力のハイブリッド剣術相手に使うには余りにも至難。


 それでもやらなければ腕の一本は平気で持っていかれる。




 レーゼインの胸中に焦りはない。ただ、こちらが全力で攻撃をいなしているのに、グランは何事もなかったように剣戟を重ねる、という現実に辟易する。


 単純な年季の差。だが、この覆しようのない圧倒的な差を『理不尽』と呼べないのは許し難い。




 吹き出る汗の不快感を片隅にレーゼインはひたすらにチャンスを待つ。


 攻撃密度は変わらないまま試合場を区切る白線の手前まで押し込まれ、レーゼインは表情を苦悶を滲ませる。




 その瞬間、グランの無意識レベルの緩みを感じ取った。剣戟密度は変わらないため一見では気づけないが、精神――魂の揺らぎを魔力で見ることはできる。


 刃を弾き、視界の右側にできた隙間に身体を潜り込ませる。追撃が来る前にレーゼインはすれ違い様の一太刀――グランの前髪が舞い上がった。




 素早く距離を取ったグランは上体を起こすレーゼインに笑い掛ける。




「本当に型もなにもないようだ。まさか左手に持ち替えるとは……目測に依存していたら首を斬られていたよ」


「なかなか上手く行かないものですね」


「魔剣には剣身が伸びるものもある、それを見たことがあったからだよ。剣技だけでそんなことをする者は見たことがなかった」


「でしょうね……」




 こんなものは剣技ではない。


 それでも前髪を斬るのが限界だった。


 今までは反撃すらできなかったが、一度は当てられたのもまた事実。効果がない訳でもないのだ。




 レーゼインは深呼吸を一度、睨みつけるような視線でグランと対峙する。頬を伝った汗が置いていかれる速度で駆け出した。


 木刀を背中まで引き、思い切り投げつける。




 しかし、小さな身体で発揮できる投擲能力は簡単に見切られてしまう。


 グランは目を見張りながらも、木剣を天井へ打ち上げた。完璧な角度と威力により突き刺さる。


 敵の剣を叩き落とす技は存在する。戦を主眼に置いた競技のため、この技を決められれば即敗北となる。


 しかし、自分で捨てた場合のルールは定義されていない。だがそれは、素手で剣に挑むこと自体無謀だから制定する意味がないからだ。




 ――勝負を投げた?


 だとすれば、グランとしてはレーゼインを心底軽蔑せざるを得ない。無謀な戦いに挑むくらいなら負けを認めるのも一つの選択肢だ、と理解している。


 しかし、自棄になってこんなことをするのなら剣を持つ資格さえない。




 グランは腕から力を抜いた。どんな意図にせよ、突撃してくる少女を強かに打ち付けても最早意味はない。レーゼインにガシ、と組み付かれる。


 グランが剣を握る手に指を捩じ込んだ。堪えきれないとばかりにレーゼインが笑った。




「あはっ」


「――まさかッ!?」




 グランが気づいた時には最後の勝負は始まっていた。




「最初から私の剣を奪い取るつもりで……!?」


「よしよしよしよし」


「ぐッ」




 身を引こうとしたグランは躓き、背中から倒れる。レーゼインの足が引っ掛かったのだ。


 グランが距離を取ろうとすることを読んで、レーゼインが足を伸ばしていた。


 剣術に足を掛ける技は当然ない。反則行為だが、グランから引っ掛かりに行ったようにも見えなくもなかった。




 馬乗りになって木剣を奪おうと狂ったように暴れる。グランの肩を床に押し付けているので反撃も全体重を乗せれば相殺できた。勝敗の趨勢は指先の力に依る。


 主導権はレーゼインが掴んだ。


 刃に全体重を乗せ、グランへ押し込む。刃が肩に触れる寸前で力は拮抗した。




「後少しっ……!」


「くッ――」




 迫って来る刃を注視する最中――ふ、とグランは視界の端に転がる木剣に気づいた。


 天井に打ち上げたレーゼインの剣が落ちて来たのだ。揉み合いになって落下音に気づかなかったらしい。


 呼吸を止め、グランは片手を離した。瞬間、刃同士がぶつかり合う。余りに早過ぎる振りに、間近にいたレーゼインすらいつ差し込まれたか気づけなかった。




「え?」




 二本目の剣を首筋に添えられ、レーゼインは敗北した。


 グランから離れるとへなへな、と尻餅をつく。無闇息を吐かず、深い呼吸を繰り返して心拍を下げた。


 グランが膝を折り、木剣を渡して来る。




「レーゼイン君……とても、強かったよ。一体どんな経験をしたらあんな戦い方を……」


「――認められますか?」


「あ、ああ……『学院剣術七級以上取得者に三回以上勝利、九級以上取得者との一回以上の立ち会い』、文句なしの条件達成。ゾルステア王国流剣術『階梯級二段』グラン・ディティエル・レ―ディンの名において、レーゼイン・アスタ・ヴァイススターに学位剣術八級資格を認定する」




 学院教師が認めることで剣術資格が生徒に付与される。レーゼインは当初の目的を果たした。これで無事、『剣術基礎』の授業を受けなくて済む。


 安堵共に腕を伸ばして色っぽい息を漏らす。


 立ち上がったグランが手を差し伸べたので、掴むと一気に持ち上げられた。




「学院史上最速の認定だろうね」


「もっと凄い人もいると思いますけど」


「だとしても君が上澄みなのは変わらない。良ければ『剣術研究会』に入らないかい?」


「止めておきます」




 レーゼインは即答した。剣術に興味がないでもなかったが、専門的に学ぶとなれば話が変わる。




「私の剣の実力は八級が限度でしょうから。ほら、小さいですし……小細工ありならどうにでもなりますが」


「そうか、君なら上手くやる、と思うが無理強いはできないな」




 頬を伝う汗を拭こうとポケットに手を入れたところでレーゼインはハンカチを落としたことに気づいた。汗は襟で拭い、受け取った木剣を腰に提げる。




「そろそろ講義の時間が終わるので失礼します」


「あぁ、気が変わったらいつでも声を掛けてくれ」




 レーゼインは『だとすれば、今生の別れですね』と口にしようとしたが留めて、第一教練場を後にした。


 扉を後ろ手に閉じたところで立ち止まる。


 すぐ横にゼントが立っていたからだ。




「……覗き見とは趣味が悪いね」


「いや、そんなつもりなかったんだけど……ごめん。ただハンカチを渡しに来ただけなんだ」


「あぁ、拾ってくれてたんだ。ありがと」


「うん……」


「何もぞもぞしてんの、言いたいことがあるならはっきり言ってよ。ムカつくからさ」


「……はい」




 容赦のない辛辣な発言にシュン、としながらゼントは口を開く。




「あんなに強いなんて思わなかったから……凄い、と思って」


「月並みな感想ね」


「いつの間にか見惚れてた」


「結構卑怯な技使ったけどね」


「それでも……凄い、と思ったんだ」


「ふーん、そう。まあ、お礼は言わないよ」




 普通の感想。それは、レーゼインとゼントのレベルが離れていることを意味する。


 ピアノを弾いたことない者はカエルの歌を弾けるだけで称賛するものだ。カノンを弾けても、月光を弾けても、同じ感想を口にする。


 何が凄いのか理解できていなければ言葉の重みもそんなものである。そんな薄い称賛はいらない。




 レーゼインはゼントから手渡されたハンカチを受け取る。ハンカチを指に挟んだまま手を振って、第三教練場を後にする。


 その際、一瞬だけ手が触れた。




「…………」




 少年は掌を見詰め、ふ、と思い出す。


 情けなくセレナに縋り、口を一文字にして涙を流していたあの時を――。








 ◎




 ――あの日、あの時、停滞していた人生が音を立てて動き出した。眩い黄金が道を指し示した。




 物心つく前に両親は死んでいた。


 だから、記憶にある一番古い記憶は今にも森に飲み込まれそうな孤児院に子供数人が暮らす光景と、孤児院を営む貧相で生きているのか死んでいるのか見分けがつかないような老婆の姿だった。


 自分が劣悪な環境に身を晒していたことさえ知らないほど幼かった。


 終わりへ向かうだけの虚無な生。自分が生きていたことさえも容易く忘れられる真の終わり。




 あの日、人攫いに拐かされた。


 牢屋の中に押し込まれた時、初めて恐怖という感情を理解した。情けなく幼馴染に縋り付き、泣き喚くことしかできなかった。


 間もなく、牢獄は破壊音により埋め尽くされた。世界が終焉を迎えるのだ、とい本気で考えていた。


 何秒か何時間か経った頃、光と共に牢屋が開け放たれる。


 光――そう表現するしかない希望の火を灯した子供がセレナへ手を伸ばしたのだ。


 自分には縋ることしかできなかった手で救いを齎した。


 解放の喜びと自分への不甲斐なさで感情がグチャグチャになった。顔も涙で滅茶苦茶になっていたのだろう。だからか、『仕方ない』とばかりに少女はゼントにも手を差し伸べた。


 その暖かな手を握った時――彼女のように強く優しい、灯火のような人間になりたい、と思った。




 ほんの少しの優しさと、勇気の残滓が今も残っている。








 ◎




 八年経っても、心の暗闇を斬り裂いた黄金の光を忘れられない。


 生きていられることがどんなに幸福なことか初めて知った日――。


 手を伸ばすことの意味を知った日――。


 全てが一辺した始まりの日――。


 何故原点を思い出したのかわからないまま、ゼントは拳を作った。




「――君も道場破りする気かい?」


「いえ、違います」




 ゼントは脱兎のように教練場を後にした。


 扉から顔だけ出したグランは走り去る少年の背中に呟いた。




「……何だあの魔力は?」

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