第八章
第八章
四月は、静かに過ぎた。
高橋少佐は二度と病院に来なかった。
阿嬌の最後の嘘は、彼を欺くことに成功した。襲撃に失敗し、面目を失った高橋は、別の任地へ異動したという噂が流れた。
だが、それは病院にとって何の慰めにもならなかった。
志明は変わった。
以前のような純粋さは消え、代わりに静かな決意が宿っていた。
「患者を救う」
それだけを考えて、働いた。
地下組織の活動は続いていた。阿嬌の犠牲で得た時間を無駄にしないために。
四月十五日、新しい逃亡者が到着した。
今度は五人。中国人のレジスタンスと、二人のユダヤ人難民。
志明は一人の男を手術した。腹部に銃創。
「大丈夫です。必ず助けます」
志明の手は、もう震えなかった。
手術は成功した。
術後、美玲が言った。
「上達したわね」
「…阿嬌おばさんに、教えてもらいました」
美玲は何も言わなかった。
二人で屋上に上がった。
マカオの街を見下ろす。
「あの夜から、よくここに来るのね」美玲が言った。
「ええ」
「彼女のことを、考えてる?」
志明は頷いた。
「毎日」
沈黙。
「私も」美玲は小さく言った。「あの人のこと、嫌いだった時もあった。裏切り者だって、憎んでた」
「でも?」
「でも、最後に彼女がしたことを見て…」美玲は目を伏せた。「人間って、単純じゃないのね」
志明は美玲の横顔を見た。
「僕たちは、正しいことをしているんでしょうか」
「わからない」美玲は正直に答えた。「でも、何もしないよりはマシだと思う」
風が二人の髪を揺らした。
「先生」
「はい」
「阿嬌おばさんの死を、無駄にしないで」
美玲は志明を見た。
「彼女が守りたかったもの、覚えてる?」
志明は答えた。
「この病院。患者たち。そして…」
「私たち」
二人は頷き合った。
五月に入ると、患者が急増した。
日本軍の統制が厳しくなり、負傷者や病人が続々と運び込まれた。
志明は休む暇もなく働いた。
ある日、老人が運ばれてきた。
栄養失調と肺炎。
「もう長くないかもしれない」黄医師が言った。
だが、志明は諦めなかった。
「まだできることがあります」
点滴を打ち、薬を投与し、一晩中付き添った。
老人は時々、目を開けた。
「…ありがとう」
かすかな声。
「大丈夫です。必ず良くなります」
老人は微笑んだ。
そして、静かに目を閉じた。
翌朝、老人は息を引き取った。
志明は老人の手を握っていた。
「すみません…救えませんでした」
だが、老人の顔は穏やかだった。
苦しみから解放された顔。
志明は気づいた。
救うとは、必ずしも生かすことだけではない。
苦しみを和らげること。
最期に寄り添うこと。
それも、医師の仕事なのだと。
六月十五日。
ドゥアルテが志明を呼んだ。
「陳先生、君に任せたい患者がいる」
部屋に入ると、若い女性が横たわっていた。
妊婦だった。
「香港から逃げてきた。もうすぐ出産だが…」ドゥアルテは言葉を濁した。「難産になる可能性が高い」
志明は女性を診察した。
胎位が異常だった。帝王切開が必要かもしれない。
「できます」志明は言った。
「一人で?」
「美玲さんに手伝ってもらいます」
ドゥアルテは志明を見た。
「君は成長したな」
「…まだまだです」
「いや」ドゥアルテは微笑んだ。「もう一人前の医師だ」
その夜、陣痛が始まった。
志明と美玲が対応した。
だが、予想通り、難産だった。
「帝王切開に切り替えます」
準備を整え、手術を開始した。
志明の手は迷わなかった。
一つ一つの動作が、確実だった。
阿嬌に教わったこと。
ドゥアルテから学んだこと。
美玲と共に経験したこと。
すべてが、この瞬間に集約されていた。
「もう少し…」
慎重に子宮を切開する。
そして—
赤ん坊の泣き声。
「男の子です!」美玲が叫んだ。
志明は赤ん坊を取り上げた。
小さな命。
温かい命。
この子は、戦争の中で生まれた。
だが、生きている。
「おめでとうございます」志明は母親に赤ん坊を渡した。
母親は涙を流しながら、赤ん坊を抱きしめた。
「ありがとう…ありがとう…」
志明は微笑んだ。
この瞬間のために、医師になったのだと思った。
手術後、志明は屋上に上がった。
いつもの場所。
東の空が、薄明るくなり始めていた。
夜明けだ。
「おばさん」志明は空に向かって呟いた。「今日、赤ん坊を取り上げました」
風が答える。
「おばさんが教えてくれたこと、忘れません」
志明は深呼吸をした。
「この病院を、患者たちを、守り続けます」
朝日が昇り始めた。
マカオの街を、金色の光が照らす。
志明は光の中に、阿嬌の姿を見た気がした。
優しく笑う、あの顔。
「先生、頑張ってね」
そう言っているような。
涙が流れた。
だが、今度は悲しみだけではなかった。
感謝と、決意と、希望が混ざった涙。
「はい」志明は答えた。「頑張ります」
太陽が完全に昇った。
新しい一日が始まる。
戦争はまだ続いている。
苦しみも、悲しみも、まだある。
だが、命も、希望も、まだある。
志明は病棟に戻った。
今日も、患者たちが待っている。
救うべき命が、待っている。




