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平和の砦—マカオ1942  作者: しのはらりょう


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第三部 崩壊 第七章

第三部 崩壊

第七章

志明は動けなかった。

路地に座り込む阿嬌。

彼女の嗚咽だけが、夜の静寂を破っていた。

何と声をかければいい。

怒るべきか。責めるべきか。

だが、志明にできたのは、ただ立ち尽くすことだけだった。

やがて、阿嬌は立ち上がった。

ふらふらと、病院の方へ歩いていく。

志明は後をつけた。

阿嬌は裏口から病院に入り、階段を上がっていく。

屋上へ。

志明は距離を置いて、階段を上った。

屋上のドアが開いている。

阿嬌は手すりの近くに立っていた。

マカオの夜景が広がっている。街の明かりが、星のように輝いている。

「おばさん」

志明は声をかけた。

阿嬌は振り返った。

涙で濡れた顔。絶望に歪んだ表情。

「…見てたのね」

「はい」

沈黙。

「通報するの?」阿嬌は虚ろな声で聞いた。

志明は答えられなかった。

「通報しなさい」阿嬌は言った。「私は裏切り者よ。何人死んだかしら。私のせいで」

「おばさん…」

「昨夜襲撃された拠点のことも、私が教えたの。十二人が捕まった。きっと、みんな殺される」

彼女は自分の手を見た。

「この手で、何人殺したのかしら」

志明は近づいた。

「息子さんのためだったんですね」

阿嬌は笑った。乾いた、壊れた笑い。

「息子?もういないのよ。半年前から」

「それでも、情報を…」

「わかってたの」阿嬌は震える声で言った。「途中から、わかってた。手紙の日付がおかしいって。写真が古いって。でも…」

彼女は膝をついた。

「信じたかったの。もしかしたら、もしかしたらって。バカよね」

志明は阿嬌の隣に座った。

「おばさんは、愛していたんです」

「愛?」阿嬌は自嘲した。「愛のために、何人殺したの?これが愛なの?」

志明は何も言えなかった。

風が吹いた。冷たい風。

「先生」阿嬌は言った。「あなたに謝っても、許されないわよね」

「…おばさん」

「でもね、一つだけ言わせて」

阿嬌は志明を見た。

「あなたたちを、私は本当に愛していたわ。この病院も。患者たちも。みんな」

彼女の目から、また涙が流れた。

「だから、最後に一つだけ、良いことをさせて」

「何を…」

阿嬌は立ち上がった。

「明日の夜、三人が来るって教えたでしょう。高橋は必ず襲撃に来る」

「それは…」

「でも、もし彼らが来なかったら?」阿嬌は微笑んだ。「もし、私が嘘の情報を流したら?」

志明は息を呑んだ。

「高橋は気づきます!」

「気づくでしょうね。でも、それでいいの」

「おばさん!」

「先生」阿嬌は志明の肩を掴んだ。「今すぐ、ドゥアルテ院長に伝えて。明日の計画は中止だって。別の日に延期しなさい」

「でも、あなたは…」

「私はね、もう疲れたの」

阿嬌は穏やかに笑った。

「息子のところに、行きたいの」

志明は立ち上がった。

「待ってください!逃げましょう!一緒に…」

「どこへ?」阿嬌は首を振った。「私が生きている限り、あなたたちは危険なの。高橋は私を使い続ける」

「そんな…」

「いいのよ」

阿嬌は屋上の手すりに寄りかかった。

「先生、最後にお願いがあるの」

「何ですか」

「私のこと、覚えていてくれる?」

志明は頷いた。涙が溢れた。

「悪い人としてじゃなくて…ただの、バカな母親として」

「おばさんは…」志明は声を震わせた。「良い人でした。最後まで」

阿嬌は微笑んだ。

「ありがとう」


翌朝、志明はドゥアルテに報告した。

すべてを。

阿嬌の裏切り。息子の死。そして、彼女の最後の決意。

ドゥアルテは長い間、黙っていた。

「…そうか」

彼の声は、悲しみに満ちていた。

「明日の計画は中止だ。すぐに連絡を取る」

美玲も呼ばれた。

真実を聞いた彼女は、拳を握りしめた。

「阿嬌おばさんが…」

「彼女を責めることはできない」ドゥアルテが言った。「我々の誰が、同じ立場でどう行動したか、わからない」

「でも、彼女のせいで…」

「わかっている」ドゥアルテは目を閉じた。「だが、彼女も被害者だ」

その日、阿嬌はいつも通り働いていた。

患者の世話をし、薬を配り、若い看護師に指示を出す。

だが、志明は気づいた。

彼女が一人一人に、丁寧に接していることを。

まるで、別れを告げるように。

昼休み、阿嬌は志明に声をかけた。

「先生、これ」

小さな包みだった。

「何ですか」

「お菓子よ。先生、いつも頑張ってるから」

志明は受け取った。

「ありがとうございます」

阿嬌は優しく笑った。

「先生、良い医者になってね」

「…はい」

「患者を、たくさん救ってあげて」

彼女はそう言うと、立ち去った。

志明はその後ろ姿を見送った。

小さな背中。

もう、二度と見ることができないかもしれない背中。


その夜。

三月二十七日、午後十一時。

志明は当直だった。だが、眠れなかった。

阿嬌は何をするつもりなのか。

午前零時を過ぎた頃、動きがあった。

阿嬌が病院を出ていくのが見えた。

志明は後をつけた。

阿嬌は裏手の路地へ向かった。

高橋が待っていた。憲兵を五人連れている。

「今夜だと言ったな」高橋が言った。「三人、どこに来る?」

阿嬌は深呼吸をした。

そして、言った。

「来ません」

高橋の表情が変わった。

「何?」

「嘘をついていました」阿嬌は真っ直ぐ高橋を見た。「今夜は誰も来ません」

沈黙。

そして、高橋は理解した。

「…裏切ったのか」

「ええ」

高橋は銃を抜いた。

「なぜだ。息子のために、君は…」

「息子はもういません」阿嬌は穏やかに言った。「あなたが殺したんでしょう」

高橋は何も答えなかった。

「私はね」阿嬌は続けた。「あなたを許さない。でも、私自身も許せない」

彼女は目を閉じた。

「だから、これで終わりにします」

「君は有用だった」高橋は冷たく言った。「残念だ」

銃口が阿嬌に向けられる。

志明は飛び出そうとした。

だが、美玲が後ろから押さえた。

「ダメ!」

「でも!」

「彼女の選択よ」

美玲の目にも、涙が浮かんでいた。

阿嬌は最後に、夜空を見上げた。

「阿強…お母さん、もうすぐ行くからね」

銃声。

一発だけ。

阿嬌の体が、崩れ落ちた。

志明は叫ぼうとしたが、声が出なかった。

高橋は部下に命じた。

「死体を処理しろ」

そして、彼は去っていった。

憲兵たちが阿嬌の体を運んでいく。

まるで、ゴミのように。

志明と美玲は、壁の陰に隠れたまま、動けなかった。


翌朝、病院に阿嬌の姿はなかった。

「林看護師が突然辞めた」という説明が流された。

スタッフたちは首を傾げたが、誰も深く追求しなかった。

この時代、人が突然いなくなることは、珍しくなかったから。

志明は一日中、放心状態だった。

阿嬌がいつも立っていた場所を見る。

彼女の声が聞こえる気がした。

「先生、お茶よ」

「無理しちゃダメよ」

「良い子ねえ」

だが、もう彼女はいない。

夜、志明は屋上に上がった。

阿嬌が最後に立っていた場所。

マカオの夜景が広がっている。

美しい光景。

だが、志明には何も美しく見えなかった。

「許してください、おばさん」

志明は呟いた。

「僕は、あなたを救えなかった」

風が吹いた。

答えは、返ってこなかった。

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