第六章
第六章
三月十五日、志明は阿嬌を観察し始めた。
彼女はいつも通り働いていた。患者の世話をし、薬を配り、若い看護師たちに指示を出す。
だが、時折、ぼんやりと遠くを見つめる瞬間があった。
そして、以前ほど笑わなくなった。
「おばさん、体調は大丈夫ですか」
「ええ、大丈夫よ」
だが、その声には力がなかった。
三月十八日の午後、奇妙なことが起きた。
志明は書類整理をしていた時、窓から外を見た。
病院の裏手、小さな路地に、阿嬌が立っていた。
そして、彼女の前に—高橋少佐がいた。
志明の心臓が止まりそうになった。
二人は話している。阿嬌が何かを渡している。紙?
高橋はそれを受け取り、ポケットにしまった。
そして、阿嬌の肩に手を置いた。
阿嬌は項垂れている。
高橋が去った後、阿嬌はその場に立ち尽くしていた。
まるで、魂が抜けたように。
志明は窓から離れた。
見てはいけないものを見た気がした。
だが、現実から目を逸らすことはできなかった。
阿嬌が—
まさか。
その夜、志明は美玲に相談した。
「今日、阿嬌おばさんが高橋と会っているのを見たんです」
美玲の顔が強張った。
「確かなの?」
「はい。何か紙を渡していました」
美玲は黙り込んだ。
「まさか、おばさんが…」
「わからない」美玲は首を振った。「でも、可能性は否定できない」
「そんな!おばさんは、この病院を誰よりも愛しています!裏切るはずが…」
「愛しているから、裏切らないとは限らないわ」美玲は冷たく言った。「人は様々な理由で裏切る。金、恐怖、そして—愛」
志明は言葉を失った。
「ドゥアルテ院長に報告するべきか…」
「待って」美玲は志明を止めた。「確証がない。それに、もし本当なら、彼女を追い詰めることになる」
「でも、このままでは…」
「私が調べる」美玲は決然と言った。「あなたは普段通りに。何も知らないふりをして」
翌日、志明は阿嬌を普段通りに接した。
だが、彼女を見る目が変わってしまった。
この優しい老婆が、裏切り者?
信じられない。信じたくない。
昼休み、志明は阿嬌がお茶を淹れているのを見た。
「おばさん」
「あら、先生。お茶、飲む?」
「はい」
二人で小さなテーブルに座った。
「おばさんには、家族がいるんですか」
阿嬌の手が止まった。
「…息子がいるわ」
「今、どこに?」
「香港よ。薬局をやってたの」
過去形だった。
「会いたいですか」
阿嬌は茶碗を見つめた。
「会いたいわ…毎日、会いたいと思ってる」
彼女の目に、涙が浮かんだ。
「でも、もう…」
彼女は言葉を飲み込んだ。
「もう?」
阿嬌は首を振った。
「なんでもないの。年寄りの繰り言よ」
彼女は無理に笑った。だが、その笑顔は悲しかった。
志明は胸が痛んだ。
この人は、何かに苦しんでいる。
三月二十五日。
状況は急変した。
深夜一時、志明は当直だった。
仮眠室で横になっていると、小さな物音で目が覚めた。
廊下に出ると、阿嬌がいた。
「おばさん?こんな時間に…」
阿嬌は驚いて振り返った。
「先生…眠れなくて、少し歩いていたの」
だが、彼女の手には小さなノートがあった。
患者のリストだ。
「それは…」
「あ、これ?薬の在庫を確認しようと思って」
だが、それは薬品リストではなかった。
志明は何も言わなかった。だが、二人の間に緊張が走った。
「先生」阿嬌は小さな声で言った。「あなたは、良い子ね」
「…おばさん」
「だから、お願い」彼女の目が潤んだ。「何も聞かないで。何も見ないで」
「でも…」
「お願いよ」
阿嬌は走り去った。
志明はその場に立ち尽くした。
翌朝、緊急会議が開かれた。
「昨夜、地下組織の拠点が襲撃された」ドゥアルテが深刻な表情で報告した。「十二人が逮捕された」
室内に衝撃が走った。
「どうして…」黄医師が呻いた。
「情報が漏れていた」美玲が言った。「拠点の場所、メンバーの名前、すべて」
「誰が…」
全員が互いを見た。
疑念の目。
「内通者がいる」美玲は断言した。「そして、その人物はこの病院にいる」
ドゥアルテは黙って首を振った。
「信じたくないが…証拠は?」
「まだない」美玲は悔しそうに言った。「でも、時間の問題よ」
会議が終わった後、志明は美玲を引き止めた。
「昨夜、阿嬌おばさんを見たんです」
「何を?」
「患者リストを持って、深夜に歩いていました」
美玲の顔が険しくなった。
「確かなの?」
「はい」
美玲は何かを決意した顔で頷いた。
「今夜、彼女を監視する」
三月二十六日の夜。
美玲と志明は、交代で阿嬌を見張った。
午前零時。
阿嬌が部屋から出てきた。
廊下を歩き、階段を降りていく。
志明は距離を置いて後をつけた。
阿嬌は病院の裏口から出た。
小さな路地。街灯の光。
そして—高橋少佐が待っていた。
志明は壁の陰に隠れた。
「情報は?」高橋の声。
阿嬌が何かを渡す。紙だ。
「明日の夜、新しい逃亡者が三人到着します。パイロットが一人、それから…」
志明の血が凍った。
阿嬌が—
本当に、裏切り者だった。
「良い情報だ」高橋は満足そうに言った。「君の息子は喜んでいるだろう」
阿嬌は何も答えなかった。
「ああ、そうだ」高橋は何かを思い出したように言った。「君の息子だが」
阿嬌が顔を上げた。
「手紙を書いていた。読むかね?」
高橋が封筒を差し出す。
阿嬌は震える手で受け取った。
封を開け、手紙を読む。
だが、読み進めるうちに、彼女の顔が蒼白になった。
「これは…いつの…」
「二月だ」高橋は冷たく言った。「君が協力を始める前の月だな」
阿嬌は手紙を落とした。
「嘘…」
「嘘?」高橋は笑った。「何が嘘だ?」
「阿強は…息子は生きてるって…あなたは言った…」
「私がいつ、そう言った?」
阿嬌は絶句した。
「君が勝手にそう信じていただけだ」高橋は冷酷に続けた。「君の息子は二月十五日、香港で処刑された。憲兵隊の記録に残っている」
阿嬌は膝から崩れ落ちた。
「いやあああ!」
彼女の叫びが夜に響いた。
「だが、君はもう引き返せない」高橋は無情に言った。「君はすでに多くの情報を流した。レジスタンスに知られれば、君は処刑されるだろう」
「殺して…お願い、私を殺して…」
「それはできない。君はまだ有用だ」
高橋は踵を返した。
「次の報告を待っている」
彼は闇に消えた。
阿嬌はその場に座り込んだまま、動かなかった。
肩を震わせて、泣いていた。
志明は壁の陰で、すべてを見ていた。




