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平和の砦—マカオ1942  作者: しのはらりょう


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第二部 亀裂 第五章

第二部 亀裂

第五章

三月に入ると、空気が変わった。

日本軍の巡回が増えた。週に一度だった検問が、三日に一度になった。

病院にも、憲兵が頻繁に顔を出すようになった。

「定期視察だ」高橋はそう言ったが、誰もその言葉を信じていなかった。

マクドナルド中尉は、三月五日の夜、密かに病院を出た。

「フィリピン行きの船に乗せた」美玲が志明に報告した。「無事に着けばいいけど」

彼女の表情には、安堵と不安が混じっていた。

志明は、いつの間にか組織の一員になっていた。

正式に参加を表明したわけではない。だが、秘密を知り、黙認し、時には手を貸すことで、自然と仲間になっていた。

「次の逃亡者は、来週到着する予定だ」ドゥアルテが小声で言った。「中国人のレジスタンス、三人だ」

「三人?」志明は眉をひそめた。「それは…」

「多すぎる、わかっている」ドゥアルテは苦い顔をした。「だが、断れない。彼らは重要な情報を持っている」


三月十二日の夜、彼らは到着した。

裏口から、黄医師が三人の男を連れてきた。皆、疲弊しきっていた。

一人は肩に銃創を負っていた。

「すぐに手術を」

志明と美玲が対応した。

手術室で、男は苦しげに呼吸をしていた。

「大丈夫です。すぐに楽になります」

麻酔をかけ、手術を始める。

弾丸は肩の深部に食い込んでいた。慎重に摘出する。

その間、美玲が患者の状態を監視する。

「心拍安定。血圧も問題なし」

「よし」

弾丸が取れた瞬間、志明は小さく息をついた。

「あと少しだ」

縫合を始めた時、廊下から足音が聞こえた。

複数の人間。

志明と美玲は顔を見合わせた。

ドアが開く。

阿嬌だった。

「先生たち、大変!日本軍が来てるわ!」

血の気が引く。

「今?」

「ええ、表に三台トラックが。高橋少佐もいる!」

美玲が即座に判断した。

「手術を続けて。私が対応する」

「でも…」

「あなたは医師でしょう!患者を放っておけないはずよ!」

美玲は手術室を飛び出した。

阿嬌も続こうとしたが、志明を振り返った。

「先生…頑張って」

彼女の目には、何か言いたげな光があった。だが、すぐに走り去った。

志明は一人、手術台の前に残された。

患者の呼吸音だけが聞こえる。

手が震える。

だが、止めるわけにはいかない。

志明は深呼吸をし、縫合を続けた。

一針、一針。

外では、何が起こっているのか。


一階では、ドゥアルテが高橋と対峙していた。

「夜分遅くに、どういったご用件でしょうか」

「不審者の目撃情報があってね」高橋は笑みを浮かべた。「この近辺で、武装した男たちが見られたそうだ」

「この病院は関係ありません」

「それを確認させてもらいたい」

憲兵たちが動き出す。

美玲は階段の影で息を殺していた。

他の二人のレジスタンスは、地下に隠した。

だが、手術中の男は動かせない。

どうする。

憲兵たちが階段を上がってくる。

手術室に向かっている。

美玲は決断した。

階段を駆け上がり、手術室の前に立ちはだかった。

「ここは入れません!」

憲兵が止まる。

「どけ」

「手術中です!無菌状態を保たなければ、患者が死にます!」

「我々は医療の邪魔をしない。ただ確認するだけだ」

「確認のために患者を殺すんですか!」

美玲の声が廊下に響いた。

重い沈黙。

そこへ、高橋が階段を上がってきた。

「林看護師、だったかな」

「はい」

「手術中の患者は?」

「交通事故の患者です。内臓損傷で」

「そうか」高橋は手術室のドアを見た。「では、終わるまで待とう」

美玲の心臓が凍った。

終わった。

手術が終われば、患者を見られる。銃創だとわかる。

どうする。


手術室の中、志明は最後の縫合を終えた。

「終わった…」

その時、ドアがノックされた。

「陳先生」阿嬌の声だった。「少しドアを開けてくれる?」

志明はドアを細く開けた。

阿嬌が隙間から顔を出す。

「外に憲兵がいるわ。手術が終わるのを待ってる」

志明は青ざめた。

「どうすれば…」

阿嬌は何かを考えていた。そして、決意したような表情で言った。

「私に任せて」

「おばさん?」

「いいから。あなたは患者を地下へ運んで。裏の階段を使えば、見つからないわ」

「でも、外には…」

「私が時間を稼ぐ」

阿嬌はそう言うと、廊下へ出ていった。

志明は迷った。だが、選択肢はなかった。

患者をストレッチャーに乗せ、裏口へ向かう。


廊下では、阿嬌が高橋の前に立っていた。

「少佐、お茶をお持ちしました」

「結構だ」

「いえいえ、お待ちの間くらい」阿嬌は盆を持って近づいた。

その時、彼女の手が滑った。

盆が落ち、茶碗が割れる。熱いお茶が床に広がった。

「ああ!申し訳ございません!」

憲兵たちが慌てて後ずさる。

「掃除を!すぐに掃除を!」

阿嬌が大げさに騒ぎ立てる。

美玲はその隙に、手術室へ駆け込んだ。

空だった。

志明と患者は、もういない。

「手術は終わったようだな」高橋が言った。

「ええ、たった今」美玲は平静を装った。「患者は回復室に運びました」

「では、そこへ案内してもらおう」

「でも、麻酔から覚めていません。刺激は…」

「構わん」

高橋は容赦なかった。

回復室へ向かう。

美玲は必死に頭を回転させた。

どうする。患者はいない。何と言い訳する。

回復室のドアを開けた瞬間—

ベッドに、患者が横たわっていた。

志明が横に立っている。

「容態は安定しています」志明が報告した。

高橋が近づく。患者を見る。

顔は蒼白で、意識はない。腹部に包帯が巻かれている。

「交通事故、と言ったな」

「はい」志明が答えた。「トラックにはねられたと」

高橋はしばらく患者を観察した。

そして、包帯に手を伸ばした。

「少佐!」志明が制止した。「今包帯を外せば、出血が再発します!」

高橋は志明を見た。

「君は、患者を守りたいのだな」

「当然です。私は医師ですから」

二人の視線が交錯する。

長い沈黙。

そして、高橋は手を引いた。

「…そうか」

彼は部屋を出た。憲兵たちも続く。

「今日のところは、これで失礼する」

高橋は階段を降りながら言った。

「だが、また来るよ。必ず」

トラックのエンジン音が遠ざかっていく。

志明は、その場に崩れ落ちそうになった。

美玲が支える。

「よくやったわ」

「患者は…本物ですか?」

「ええ」美玲は頷いた。「阿嬌おばさんが、別の患者と入れ替えてくれた。本物は地下よ」

志明は阿嬌を探した。

彼女は廊下の隅で、床を拭いていた。

「おばさん、ありがとうございました」

阿嬌は顔を上げた。

疲れ切った顔。そして、何か諦めたような目。

「…良かったわ」

そう言って、彼女は立ち去った。

志明は、その後ろ姿を見送った。

何かが、おかしい。

阿嬌の様子が、以前とは違う。

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