第二章
第二章
最初の一週間は、目まぐるしく過ぎた。
朝六時に起床。病棟の巡回、外来診療、緊急患者の対応。夜は当直。仮眠室で二時間眠れれば良い方だった。
だが志明は文句を言わなかった。働いている間は、考えなくて済んだ。香港のことを。家族のことを。
「陳先生、この患者の処方箋を」
「熱が下がりません、どうしましょう」
「手術の準備、お願いします」
次から次へと仕事が舞い込む。志明は必死に応えた。
阿嬌はいつも近くにいた。
「先生、お茶よ。飲まないと倒れるわよ」
「夜食、作っておいたから。食べなさいね」
彼女は母親のように志明の世話を焼いた。この病院に三十年いるという阿嬌は、あらゆることを知っていた。どの患者がどんな薬を必要としているか、どの医師がどんな癖を持っているか、薬品がどこにしまってあるか。
「困ったことがあったら、いつでも言いなさい」
そう言って笑う彼女の顔は、志明の緊張を解きほぐした。
だが、美玲は違った。
彼女はいつも忙しく動き回り、志明とは必要最小限しか話さなかった。時折、鋭い視線で志明を観察しているのを感じた。
何かを見定めているような。
一月十五日の夜、志明は当直だった。
深夜二時、病棟は静まり返っている。患者の寝息と、時計の音だけが聞こえる。
巡回を終え、ナースステーションに戻ろうとした時だった。
廊下の奥、階段の方から、かすかな物音。
志明は足を止めた。
誰かが階段を下りている。慎重に、音を立てないように。
美玲だった。
彼女は周囲を確認し、地下へ続く扉を開けた。扉が閉まる音。
志明は立ち尽くした。
地下?阿嬌は「普段は使わない」と言っていた。真夜中に、美玲は何をしているのか。
翌朝、何事もなかったように美玲は仕事をしていた。
志明は聞くべきか迷った。だが、美玲の冷たい視線を思い出し、口をつぐんだ。
一月二十日。
初めて、日本軍の兵士が運ばれてきた。
「銃創です!すぐに手術を!」
若い兵士が担架で運び込まれる。腹部から血が流れている。
ドゥアルテが指示を出す。「手術室へ。陳先生、準備を」
志明の手が震えた。
これが、日本兵。
「陳先生!」
ドゥアルテの声で我に返る。志明は手術室へ走った。
手術は二時間続いた。
志明は必死に止血し、縫合した。医学生の時に学んだ技術を総動員する。
弾丸を摘出した時、兵士がうめいた。
「母さん…」
日本語だった。だが、志明にもわかった。
この男も、誰かの息子なのだ。
手術は成功した。
術後、手を洗いながら、志明はドゥアルテに聞いた。
「院長、私たちは本当に中立なのですか」
ドゥアルテは手を拭きながら答えた。
「中立とは、誰の味方にもならないということだ。だが同時に、誰も見捨てないということでもある」
「でも…」
「わかっている」ドゥアルテは志明を見た。「君の故郷を焼いたのは彼らだ。だが、手術台の上では、彼はただの患者だ。そう思わなければ、医師は務まらない」
志明は何も言えなかった。
廊下に出ると、美玲が壁に寄りかかっていた。
「お疲れ様」
「…ああ」
美玲は志明の顔をじっと見た。
「初めて敵を救ったのね」
「敵?」
「違うの?」
志明は答えられなかった。
美玲は小さく息をついた。
「ここでは、みんな嘘をついてるの。院長も、私も、阿嬌おばさんも。そして、あなたもこれから嘘をつく」
「何の話だ」
「自分に嘘をつくの。『彼らはただの患者だ』って。でもね」美玲は志明に近づいた。「心の底では、誰が敵か、わかってるでしょう?」
彼女はそう言い残し、去っていった。
志明はその場に立ち尽くした。
窓の外、夜のマカオに灯りが点々と光っている。
平和な光景。
だが志明には、それが偽りに見えた。
この病院も、この街も、この平和も。
すべてが、薄氷の上に立っているような気がした。
二月に入ると、患者が増えた。
香港からの難民が次々と運ばれてくる。栄養失調、病気、怪我。
ベッドが足りなくなり、廊下にも患者を寝かせるようになった。
志明は休む暇もなく働いた。
そんなある日、阿嬌が志明を呼び止めた。
「先生、ちょっといいかしら」
彼女は人気のない廊下に志明を連れて行った。
「先生は良い人ね。一生懸命で、患者思いで」
「…ありがとうございます」
「だからね」阿嬌は声を落とした。「余計なことは、しない方がいいわ」
志明は眉をひそめた。
「どういう…」
「夜中に、出歩かないこと。地下には、近づかないこと」
彼女の目は真剣だった。
「何か、あるんですか」
阿嬌は首を振った。
「知らない方がいいこともあるのよ。先生は医者。それだけでいいじゃない」
そう言って、彼女は立ち去った。
志明は混乱した。
地下に何がある?美玲は何をしている?そして、なぜ阿嬌は警告したのか。
その夜、志明は眠れなかった。
仮眠室で天井を見つめながら、考える。
ここは本当に、ただの病院なのか。




