第二話「存在しない自販機と冷たい業界」
慎重な一歩
「勢いだけじゃ、失敗する」
鈴木正義は、長年の営業経験から、まず“敵を知る”ことが何より重要だと理解していた。
屋外ガチャというアイデアは確かに新鮮だったが、業界の構造や技術的な現実を知らずに動けば、
ただの夢想家で終わる。
彼は自宅の書斎に座り、タブレットを起動した。
画面に浮かび上がるのは、かつて社内AIとして活躍していた「コピオ」。今では彼の唯一の相談相手だ。
「コピオ、カプセルトイ業界の構造を教えてくれ」
コピオの業界分析
「解析開始。現在、国内カプセルトイ市場はA社とB社の2社による寡占状態です。設置台数の85%以上を両社が占有。製造・設置・商品企画・流通まで一括管理されており、外部参入は極めて困難です」
「…まるで昔の飲料業界だな。設置場所の奪い合い、価格競争、そして閉鎖的な流通網」
「補足します。両社は現在、屋内型自販機の需要増加により、月間売上前年比+22%。
人材不足により新規開発部門は停滞中。
社内リスク管理体制は保守的で、外部提案の採用率は過去3年で2%未満です」
正義はうなった。 「つまり、今の彼らは“変化しなくても儲かる”状態ってことか」
そのとき、コピオが静かに告げた。
「提案します。A社に直接出向き、商談の場を設けてください」
「いきなりか?まだ何も形になってないぞ」
「現段階での目的は、協業ではなく“情報収集”です。
業界の中心にいる者の視点を得ることが、今後の戦略構築に不可欠です。
外部からの資料では限界があります」
正義はしばらく沈黙した。 営業時代、何度も門前払いを食らった記憶が蘇る。
だが、今は会社の看板もない。個人として、還暦の男が業界最大手に話を聞きに行く――それは、勇気のいることだった。
「…わかった。名刺はまだ残ってる。スーツもある。靴は磨いておくか」
「商談の目的は“屋外型ガチャの可能性”に関する意見収集。提案書は不要。
誠意と好奇心を示すことが重要です」
「まるで、昔の飛び込み営業だな。よし、コピオ。俺に火をつけたな」
翌朝、鈴木正義はコピオの助言をもとに、A社の営業部宛てにメールを送った。
件名は「カプセルトイ業界に関するご相談」。
内容は簡潔に、業界の現状を学びたいという趣旨と、屋外展開の可能性について意見を伺いたいという誠意ある文面だった。
送信ボタンを押したあと、正義は深く息を吐いた。
「まあ、返事なんて来ないかもしれんが…やるだけやってみるか」
その日の午後、タブレットに通知が届いた。
件名:ご相談の件について 差出人:A社 営業部 課長代理 本文: 鈴木様 ご連絡ありがとうございます。 ご相談内容、興味深く拝見しました。 弊社としても業界の可能性について意見交換できればと思います。 来週火曜の午後、30分ほどお時間いただけます。 よろしければご来社ください。
正義は思わず声を漏らした。
「…来た。アポイントが取れたぞ」
コピオが即座に反応する。
「成功率12.4%の試みが成立しました。次のステップは、商談時の質問項目と想定回答の準備です」
正義は笑った。
「お前は冷静だな。俺は今、心臓がバクバクしてるよ」
彼はスーツをクリーニングに出し、靴を磨き、名刺入れを確認した。
還暦を過ぎた男が、再び“戦場”に立つ準備を始めていた。
数日後、正義はA社の本社を訪れた。 スーツに身を包み、営業時代の癖で靴を磨き、名刺を胸ポケットに差し込んだ。 受付を通され、応接室に案内されると、現れたのは若い営業部課長だった。名刺交換の後、正義はゆっくりと口を開いた。
「突然のご連絡、失礼しました。実は、退職後にカプセルトイ業界に興味を持ちましてね。今日お時間いただいたのは、少しお話を伺えればと思いまして」
課長は穏やかにうなずいた。「はい、どうぞ」
「先日、商業施設でガチャのコーナーに人が集まっているのを見まして。飲料業界にいた者としては、自販機であれだけ人が集まるのは驚きでした。そこでふと、屋外でもガチャが展開できる可能性はあるのかと…」
課長は少し眉を上げた。「屋外ですか…なるほど」
「もちろん、現実的に難しい点もあると思います。故障リスクやメンテナンス、盗難など。ですが、飲料の自販機は屋外で何十年も稼働してきました。技術的には応用できる部分もあるのではと考えまして」
課長は苦笑しながら、少し身を乗り出した。
「正直申し上げて、屋外型という話はこれまでほとんど出たことがありません。
前例がないですし、弊社としても屋内型で十分に需要があります。
今は新商品の開発や設置対応で手一杯でして…新しいことにチャレンジする余裕は、なかなか」
正義は静かにうなずいた。
「なるほど…やはり、今の業界は屋内中心で十分に回っているということですね。
貴重なお話、ありがとうございます。もし今後、屋外展開に関する動きがあれば、
またご相談させていただければ幸いです」
課長は名刺を受け取りながら、丁寧に頭を下げた。
「ええ、何か動きがあれば、こちらからもご連絡します」
商談は10分で終わった。提案書は出さず、正義はただ静かに立ち上がった。
だがその背中には、確かな決意が宿っていた。