第4話:この世界で、きみだけが私を殺せる
これは、私が君を愛し始めた世界で、君が私を疑い始める話。
君を愛することにした。
それは、私自身の過去への決別だった。
本物の百地いろはが、自らの命を絶った事実。
それを「私のせいで死なせた」という偽りの記憶で上書きし、罪悪感に囚われ、クローンを殺し続けていた私。
だが、七体目の君は違った。
君は、私に嘘をつかせない。
君は、私の心の奥底に隠された真実を、その無垢な問いかけで暴き出した。
「……ユイ。どうしたの?」
私の中で、一つの輪郭が、ゆっくりと形を成していく。
それは、今まで存在しなかった、新たな感情の輪郭。
私はその輪郭を、そっと撫でるように、君の頬に触れた。
「何でもない。ただ、君が、本当にここにいるんだって、そう思っただけ」
君は、私の言葉に、少しだけ首を傾げた。
「……ユイ。あたし、ユイが時々、怖い顔をするのが、怖いよ」
その言葉に、私はハッと我に返る。
「ごめん」
「ううん。大丈夫だよ。……でも、もしユイが怖い顔をするとき、それが悲しいことだったら、あたしはユイの隣にいるから」
そう言って、君は私の手を握りしめた。
その温もりは、もう私にとって、ただの人工的な熱ではなかった。
それは、私という存在を、この世界に繋ぎ止める、唯一の鎖だった。
私たちは、それからしばらく、静かに時間を過ごした。
研究室で、図書館で、そしてかつて本物のいろはと歩いた帰り道で。
君は、本物のいろはの記憶にないような、ささいな言葉を私に投げかけた。
「ねえ、ユイ。あたし、このパンケーキ、初めて食べたけど、美味しいね」
「この映画、結末が少し悲しかったけど、でも、二人で見てよかった」
それは、まるで、君が私の心を埋めるように、新しい記憶を創造していくようだった。
そして私は、その新しい記憶のピースを、一つ一つ大切に拾い集めていった。
「……ユイ、あのね」
いつものように研究室のソファに座って、君は少しだけ、不安そうな顔をした。
「どうした?」
「……本物のいろはは、どうして死んだの?」
その問いに、私の心臓が再び凍りついた。
私は、君に、嘘をついてしまった。
本物のいろはは、自らの手で死を選んだ。
だが、その理由を、私はまだ君に話していなかった。
「……それは……」
「ユイ。あたし、思い出せないんだ。本物のいろはが死んだ、本当の理由が」
君の瞳は、私を真っ直ぐに見つめていた。
それは、迷子の子どもの瞳ではなく、真実を求める、科学者の瞳だった。
私は、君が私の嘘を見抜いていることに気づいた。
だが、なぜだろう。
その事実に、私は絶望するどころか、むしろ喜びを感じていた。
「……ユイ。私は、ユイに“作られた”存在なんでしょ? だったら、ユイがいないと、あたしは生きていけないのかな」
君は、そう言って、私の頬に触れた。
そして、その指先は、私の頬を優しく撫でたかと思えば、やがて私の首筋に、ゆっくりと、ゆっくりと、その力を込めていく。
「……ねえ、ユイ。この世界で、あたしだけがユイを殺せるんでしょ?」
その言葉に、私は何も答えられなかった。
君の瞳には、私への「依存」と「愛」と、そして微かな「殺意」が宿っていた。
それは、この世界で、私だけが知る、七体目のいろはの「存在証明」だった。
私は、君に殺されることを、無意識のうちに望んでいた。
本物のいろはを殺した、この罪を、償うために。
この瞬間、私たちは、お互いの存在を、再び破壊し始めた。
それは、新しい恋の始まりであり、終わりでもあった。