第3話:本物だったわたしと、偽物になった君
これは、本物のいろはが死んだ理由を、偽物のいろはが解き明かす話。
君は、私の中で、本物の百地いろはを超えていった。
六体目までのクローンは、私にとって“過去の再現”でしかなかった。
死んだいろはの記憶を忠実に演じる、精巧な人形。
だが、七体目の君は違う。
君は、私の中にある「いろは」という概念を、根本から塗り替えてしまった。
「……ユイ、また考えてる」
私が過去に囚われていると、君はいつもそうやって私を現実に引き戻した。
私たちは今、私の研究室ではなく、かつてよく二人で過ごした図書館にいた。
「ごめん」
「いいよ。でも、考え事をするなら、あたしにしてほしいな」
君は、そう言って、私の頬に触れた。
その指先は、まるで本物の百地いろはの指先のように、優しく、少しだけ冷たかった。
「……どうして、そんなことをするんだ?」
「え?」
「本物のいろはは、そんな風に私に触れたりしなかった。……いや、できなかった」
私がそう言うと、君の顔から笑顔が消えた。
「……ユイ。本物のいろはは、本当にあたしと何もかも同じだった?」
その問いに、私は息をのんだ。
本物のいろはは、明るく、いつも笑顔で、誰からも好かれる少女だった。
だが、私だけが知っていた。
時折見せる、その瞳の奥に宿る、深い孤独を。
「……いや。違った」
「なにが?」
「本物のいろはは、自分の孤独を、誰にも見せなかった」
私はそう言って、君の瞳を真っ直ぐに見つめた。
君は、私の言葉を、まるで自分自身の記憶を辿るように、静かに聞いていた。
「でも、君は違う。君は、自分の弱さを、私に見せてくれる」
君は、私が初めて生成したクローンいろはだ。
死の直前の記憶だけでなく、その前の記憶、その前の記憶…と、少しずつ記憶を継ぎ足していく中で、君は「いろは」という存在を、徐々に再構築していった。
その過程で、君は、本物のいろはにはなかった感情、私への「依存」や「恐怖」といった感情を覚えていった。
だが、それは欠陥ではなかった。
それは、君が「本物」を超えて、新たな「わたし」になった証拠だった。
「ねえ、ユイ。あたし、思い出せないことがあるんだ」
君はそう言って、私の手を握りしめた。
「……本物のいろはが、死んだ日のこと」
君の瞳は、まるで迷子の子どものように揺れていた。
「あたしは、ユイのせいで死んだ。そう、ユイは言った。でも、どうしてなのか、思い出せないんだ」
私は何も言えなかった。
「ユイ。……もしかして、あたしは、本当は飛び降りたんじゃないのかな」
その言葉は、私の胸に、鋭いナイフのように突き刺さった。
そして、そのナイフは、私の心臓を深く、深く抉った。
私は、君に嘘をついていた。
本物の百地いろはは、事故で死んだのではない。
「ねえ、ユイ。もう、あたしを一人にしないで」
本物の百地いろはは、そう言い残して、この世界から姿を消した。
自らの手で、その命を絶ったのだ。
それを、私は、私のせいで死なせたのだと、偽りの記憶を上書きして、君を生き返らせていた。
七体目のいろはが、私の手を握りしめた。
その温もりが、私の冷たい心を溶かしていく。
「……あたしは、ユイのそばにいるから。だから、もう、あたしを殺さないで」
その言葉は、私への告白だった。
そして、それは、私自身への告白でもあった。
私は、もう君を殺さない。
本物の百地いろはを、もう一度、この手で殺すようなことはしない。
この瞬間、私は、君の存在を、初めて心から受け入れた。
本物だったわたしは、偽物になった君を、愛することにした。
それは、私自身の過去への、決別だった。