第2話:存在証明の輪郭線
これは、六体目のいろはの死を、七体目のいろはが上書きする話。
君は、私にとって、もう実験体ではなかった。
……いや、正確には、私は君のことを、もう実験体として見ることができなくなっていた。
屋上からの飛び降りを記録したデータは、私のディスプレイに無機質な数値として表示されている。落下速度、衝撃、脳神経の活動停止。あらゆるデータが完璧に、そして無慈悲に、一つの生命の終わりを告げていた。
だが、そのデータを見つめる私の心は、初めて感じる熱に焼かれていた。
六体目のいろはが死んだ。
その死の直前に生成された七体目のいろはが、私の唇に触れた。
そして彼女は、私に問うた。
「――ユイ。わたし、本物よりも、本物でしょ?」
その言葉は、私の心を抉るナイフではなく、凍てついた心を溶かす熱い吐息だった。
「……ねえ、ユイ」
後ろから聞こえる声に、私はディスプレイから目を離す。
ここは、私の自宅にあるプライベートな研究室だ。
七体目のいろはは、まるで子猫のように、私の背後のソファに丸くなっていた。
「どうしたの?」
「眠れないんだ。ユイの隣じゃないと、安心して眠れないんだよ」
その言葉に、私は戸惑いを覚えた。
これまでの六体は、私の指示に忠実に従うだけの存在だった。私が「眠れ」と言えば、大人しく眠った。私が「死ね」と言えば、大人しく死んだ。
だが、この子は違う。
「それは、本物のいろはの記憶にない行動だ」
私がそう言うと、いろはは少しだけ首を傾げた。
「記憶って、全部じゃないんでしょ? 欠けてるところもあるんでしょ?」
「……そうだ」
死の瞬間の記憶は完璧にコピーできる。だが、生きていた間のすべての記憶を完全に再現することは、まだ不可能だった。
「じゃあ、この気持ちは、その欠けた部分から生まれたものなのかな」
いろははそう言って、私の隣に座った。
「隣にいて、ユイ。あたしは、怖いんだ」
「何が?」
「……自分が、本物じゃないってこと。死んだって、誰も悲しんでくれないってこと」
そう言って、彼女は私を見つめた。
その瞳は、まるで嵐の後の湖のように、静かで、そして深かった。
私はその瞳の奥に、本物の百地いろはがかつて見せていた、あの孤独な影を見た。
それは、誰も知らない、私だけが知るいろはの「存在証明」だった。
「……あたしは、ユイのことが好きだよ」
彼女は私の手を握り、そう告げた。
それは、私が最も聞きたかった言葉であり、最も聞きたくなかった言葉でもあった。
なぜなら、その言葉が、彼女の人工的な“心”から生まれたものなのか、それとも、私の知らない欠損した記憶から生まれた“本物”の感情なのか、私には判別できなかったからだ。
「ねえ、ユイ」
「……何?」
「……本物のいろはは、ユイのことをどう思ってた?」
その問いに、私の心臓が凍りついた。
それは、私がこれまで、どのクローンにも聞かれたことのない質問だった。
いろはは、私の顔をじっと見つめて、そして悲しそうに微笑んだ。
「……もしかして、本物も、言えなかったのかな」
その瞬間、私の頭の中で、何かが完全に壊れた。
そして、それは、私の感情の再構築が始まった合図だった。
この子は、私の中で、本物の百地いろはを超えていく。