第一話 蠢動
ベーアハルデ魔導帝国。世界の大半をその版図とする巨大帝国。その帝都オーティアスの中央には皇帝の住まう宮殿がある。
既に夜は更け、雲間から顔を出した下弦の月が、重厚な大理石の宮殿と広大な庭園を照らしている。
壮麗かつ整然とした庭園と、5段に連なる優美なテラスを見下ろす宮殿の回廊に一人の男が佇む。
扉が開き、奥の部屋から別の男が数人の女を引き連れて出てくる。
「これは、これは。クラーセン卿。このような夜更けに如何されましたか?」
奥から出てきた者が回廊の男に話しかける。
「当然そなたを待っていたのだ、メガネット侍医。」
クラーセンと呼ばれた男が答えた。男の名はニコラース・クラーセン。第13代ベーアハルデ皇帝ラウレンツ・ホーエンバッハ治世下での宰相である。その顔は蒼白であり、表情は深刻そのものだ。
クラーセンは顔色を変えずに問う。
・クラーセン「陛下のご容態は?」
メガネットは一瞬、自身の後ろに控える女たちに目をやると、笑みをたたえて答える。
・メガネット「日増しにご快復のご様子。もう間もなくすれば何も問題なく政務にご復帰なされるでしょう。卿がご案じなされることなどありましょうか。」
・クラーセン「なればよい。此度の診察も大儀であったな。引き続き陛下をお頼み申し上げる。」
メガネットはクラーセンに深々と礼をし、立ち去る素振りを見せる。
・メガネット「あぁ、そういえば。」
メガネットは立ち止まり振り返りながら声をかける。
・メガネット「クラーセン卿、この前の件についてお話があるのでした。このような時分に恐縮ですが、少々お時間よろしいですかな?」
・クラーセン「問題ない。ちょうと寝付けずにいたところだ。」
・メガネット「かたじけのうございます。」
メガネットは傍に使える女たちに「お前たちはもう帰りなさい」と命じ、クラーセンと二人きりとなる。
・メガネット「ここではなんです。場所を移しましょう。」
二人は回廊を進み、宮殿の片隅にある小部屋に入る。そこでは一人の男が控えている。
「お待ち申し上げておりました。クラーセン卿、メガネット侍医。」
・メガネット「ここには卿お一人ですかな?マンシュタイン卿。」
「はっ、人払いは済んでおります。」
ルイトポルト・マンシュタイン。皇帝直属の騎士団で、帝国全土の安全保障と治安維持を担当している帝国保安騎士団の団長である。
・クラーセン「…して、陛下のご容態は?」
メガネット、間を置かずに厳しい眼差しで答える。
・メガネット「もって半年。恐らくは数ヶ月かと。」
沈黙が三人を包む。
・クラーセン「…そうか。ならば、もう【親箱】は動き出しているのだろうな。」
・メガネット「陛下の死期を、【親箱】はもう感じ取っていると?」
・マンシュタイン「…ええ。おそらくは既に【札】を配り終え、【授冠の乙女】も決まっているかと。」
・クラーセン「…始まるぞ。皇位継承戦争が。」
皇位継承戦争。それは世界を揺るがす大戦争へと発展し得る。
・クラーセン「もはや、一刻の猶予もない。」
クラーセンはマンシュタインに向き直り、厳しい口調で続ける。
・クラーセン「皇位継承戦争が始まる前に、なんとしても【鬼札】を見つけ出し、必ず殺せ。」
・マンシュタイン「はっ、保安騎士団総力を挙げて捜索にあたっております。」
・クラーセン「十年も奴を野放しにしているではないか。」
・マンシュタイン「面目次第もありませぬ。しかし、必ずや。」
・クラーセン「くれぐれも内密に、しかし迅速に対処せよ。」
・マンシュタイン「はっ。心得ております。」
クラーセンは顔を背け、忌々しげに言い放つ。
・クラーセン「忌み子、テオバルト・シュナイダー。十年もの間、いったいどこに…。」
・メガネット「…では、私はこのあたりで…。」
・クラーセン「そうだな。では、頼むぞ。マンシュタイン。」
・マンシュタイン「かしこまりました。」
二人が去ったあと、残ったマンシュタインのもとに、物陰から男が出てくる。
・マンシュタイン「…聞いていたか?クランツ?」
・クランツ「ええ。すべて。」
・マンシュタイン「十年前のあの日。お前が奴を逃していなければな…。」
・クランツ「返す言葉もございませぬ。」
・マンシュタイン「忌み子、テオバルト・シュナイダー。今、生きていれば、お前の息子と同じくらいか?」
・クランツ「…でしょうな。」
・マンシュタイン「特別秘密部隊総力をもって必ず殺せ。よいな。」
クランツは頷き、再び物陰に姿を消す。
夜は更に深まっていく。刻一刻と、その時は近づいていく。
59年の長きにわたった第13代皇帝の治世が終わろうとしていた―――。
【親箱】。それは皇帝を選出する魔導器具。
皇帝の死期が近づくと【親箱】は次期皇帝の候補となる6人の【候補王】とその中から真なる王を選び帝冠を授ける授冠権者【授冠の乙女】を1人選出する。
【親箱】に選ばれた【候補王】には、特殊な魔力が付与された【術札】が配布される。
【親箱】に誰が選ばれたのかを事前に知る術はない。皇帝でさえも、【候補王】になるであろう本人でさえも。
唯一つの例外を除いて。
――唯一の例外。ごく稀に紛れ込むイレギュラー。【鬼札】ジョーカー。盤面を狂わせる異物。
鬼札が出るときは例外的に、鬼札が生じる旨と誰に配られるのかが現役の皇帝にのみ【親箱】より通達される。
なぜならば、【鬼札】が出るとき、皇位継承戦争は必ず「荒れる」から。
――――二か月後。フォーレ村。
帝都オーティアスから南東に数百キロ。帝国南東部に位置するリッセンブルク州郊外のこの村は、何の変哲もない長閑な農村である。
村の中央にあるは屋敷がある。質素な造りだが、庭木や生垣の手入れは行き届いている。
屋敷から女が二人出てきて、一人は屋敷の前に止めてある馬車に乗り込む。
最初に出てきた女が屋敷の周りのカラスを追い払う。
「まったく、近頃はカラスがお屋敷の周りにたむろするようになってしまって…」
「じゃあ、行ってくるわね。ブレンダ。」
「どうかお気を付けて、お嬢様。」
「大げさね、前は毎日のように通っていたじゃないの。」
馬車に乗り込んだのはローザ・ブランデンブルク。この村の領主の娘である。
・ローザ「じゃあ、お願いね。トム。」
御者のトムが「お任せを。」と言い、馬車を出す。
・ローザ(あれからもう3年になるのね。)
ローザの脳裏には一人の青年の姿が。
――「あなたは皆様と一緒に訓練なさらないのですか?」
「…僕は、騎士にはなれないから。」
村の外れにある水車小屋に群れるカラスたちを横目に見ながら、彼女は在りし日に思いを馳せる。
鷲が悠々と飛ぶ青空の下を馬車は進む。
数時間後、馬車は大きな街に入る。
州都ジーデスハイム。リッセンブルク州の州都であるこの街は、学術都市としても栄えている。
ローザ・ブランデンブルクは、この街で開かれる高等学院の同窓会に出席するためにこの街へ来た。
多くの馬車が止まる広場にて、彼女は馬車を降り、御者のトムに「数時間で戻るわ」と告げて出かける。
広場の付近の華麗な建物には既に着飾った貴族の子女たちが集っている。
「あら、ローザさん。お久しいわね。」
・ローザ「フリーダさん、ごきげんよう。」
ローザは会場へと歩く道すがら、声をかけられ話始める。
・フリーダ「お懐かしいわ。あれから3年も経つなんて信じられませんわ。つい昨日のことのようですわ。」
・ローザ「ええ、そうですね。あっという間でしたわ。」
2人は話しながら連れ立って大広間へと入る。
大広間は見上げるように天井が高く、その上部は華麗なステンドグラスで装飾されている。
・フリーダ「あら、イサベルさんではなくって?」
・ローザ「本当ですわ。イサベルさん、お久しぶりですわ。」
二人は大広間で偶然会った女と声をかわす。
・イサベル「あら、フリーダさん、ローザさん、ごきげんよう。皆さんもうお見えですわ。」
大広間には既に多くの貴族たちが集まっている。
・イサベル「見て!アルヘンタ家のサカリアス様よ!素敵ねぇ!」
イサベルが将校服の青年を見る。
・イサベル「サカリアス様はご卒業後、帝国兵学校にご進学なさったそうよ。」
・フリーダ「帝国兵学校へ行かれたなら、もう帝国軍の幹部の地位が決まったようなものじゃない?さすがサカリアス様ですわぁ!」
・フリーダ「あちらのヘルムート様はご卒業後はバルムント騎士団にご入団なさったとか!」
・イサベル「バルムント騎士団!?名目中の名門でしてよ?どのように入られたのかしら?」
・フリーダ「それは、レームケ家の御曹司ですもの。それにあの優秀さでしてよ?名門の騎士団に入らない方がおかしいくらいですわ。」
・イサベル「ヘルムート様って確か…」
・フリーダ「そう!ご学友のシャルロットさんとご婚約なさったんですって!」
・イサベル「本当でしたのね!シャルロットさんは今日はお見えではなくって?」
・フリーダ「ヘルムート様のご入団に合わせて帝都にお移りになったそうよ。今日はご婚姻の準備で忙しいのでは?」
・イサベル「それもそうねぇ…。あぁ~わたくしも早く良い殿方と巡り会いたいですわぁ…。」
・フリーダ「今日がその絶好の機会でなくって?あまりのんびりはしていられませんよ?」
・イサベル「そうね!殿方たちともお話しないと!」
二人の話を横に聞きながら、ローザは一人の青年に目を止めている。伏し目がちで大人しそうな青年。
数年前、騎士学校の訓練場の傍らで、どこか物悲しい目で佇んでいた青年。
「…僕は、騎士にはなれないから。」
そう言って儚げに笑みをたたえていた青年。
・イサベル「ローザさんは意中の殿方はいらっしゃるのかしら?」
・ローザ「……。」
・フリーダ「ローザさん?」
二人はローザの視線の先を見る。
・イサベル「あぁ…。トゥヘルさん。いらしていたのね。」
・フリーダ「てっきり今日はいらっしゃらないとばかり。」
・イサベル「あらぁ、ローザさんは、そう…。」
二人が笑いをこぼす。
・フリーダ「たしかに素敵な方よねぇ。なんというか、他の方とは違う雰囲気があるというか。」
・イサベル「優秀な方でしたしねぇ?」
・ローザ「べ、べつにそんなつもりでは…!」
・イサベル「でも、どうかしらねぇ?ローザさんは、選帝侯にも数えられる名門中の名門ブランデンブルク家のご令嬢。かたや、トゥヘルさんはいくら優秀とはいえ、平民の出の方。さすがにお家柄が釣り合わないのではなくって?」
・フリーダ「そうよぉ、ローザさんは【授冠の乙女】に選ばれるかもしれませんのよ?」
・ローザ「まさか…。ブランデンブルク家とはいえ、わたくしの家は傍流の家系。郊外の小さな村の領主にすぎませんわ…。」
・フリーダ「でも、あれって、選帝侯の家系の乙女なら誰でも選ばれるかもしれないのではなくって?」
・ローザ「ブランデンブルク家本家にはディアナ様、エルザ様、ハンナ様がおられますし、その従姉のエミーリア様もいらっしゃいます。わたくしの出る幕など…。」
大広間の歓談と喧騒の中、街の教会から大きな鐘の音が鳴った。
・フリーダ「鐘?なぜ今頃…?」
・イサベル「そうね、まだそんな時間ではありませんのに…。」
その日、帝都より、各地各都市に伝達された。
――第13代ベーアハルデ皇帝ラウレンツ・ホーエンバッハの崩御が。
皇帝が息を引き取ると同時に、6人の王に【術札】が配られた。
それぞれの王が、それぞれの能力と共に、動き出した。
遂に、その刻が訪れた。
大広間の扉が開き、建物の支配人が現れ、告げる。
「たった今、ジーデスハイム城及び教会から通達がありました!」
大広間は水を打ったように静まり返る。
「皇帝陛下が、崩御されました!!」
大広間がざわつく。
「これより、皆様におかれましても、外の広場に出ていただき、帝都の方角に向かい、黙祷を捧げていただきます!これはブランデンブルク家当主様からのご命令です!」
従うほかはない。ここでの拒否は皇帝への不敬に値する。皇帝への不敬は、その一族も連座して罪を背負う。
大広間の全員が、押し黙って外へ出て、広場で黙祷を捧げる。
―――長い沈黙。それが終わりかけたその時だった。
空気を震わせる轟音。それと共に、街の入り口の方角から何かが飛んできた。
大地を揺るがし、広場の前に降り立ったそれは、立ち込める土煙の中から姿を現しつつ、吠える。
「この中に、ブランデンブルク家の娘はいるか?」
周囲の目がローザに集まる。
「ここではないか?城に行かねばなるまいか?」
筋骨隆々の男が一人、広場の人間を見渡している。
「もう一度問う。この中にブランデンブルク家の娘はいるか!?」
男は続ける。
「我は六の王。覇道を謳う者。力を信ずる者。数は6、札はサイス。名はヴィルフリート・メルダース!」
メルダースが名乗りを終えたと同時に、空から声が降る。
「無礼であろう、六の王。授冠の乙女の御前であるぞ。」
刹那、空から炎が舞い、炎の中からもう一人男が姿を現す。
礼服に身を包み、サーベルを腰に差しているその男は、ゆっくりと歩き、ローザの前に立つ。
「選帝侯ブランデンブルク家のご令嬢、ローザ・ブランデンブルク様ですね?」
・ローザ「…ッ!?」
声も出ないローザをよそに、彼は続ける。
「驚かせてしまい申し訳ございません。私はガエル・グレッス。此度の皇位継承戦争において、一の【術札】を賜りました【候補王】にございます。」
・グレッス「託宣が下りました。貴女が此度の皇位継承戦争において、授冠権者すなわち【授冠の乙女】に選出されました。」
広場の一同、ざわめく。
・ローザ「わ、わたくしが!?な、なにかの間違いではなくって?」
・グレッス「託宣が間違いを犯すことはありえません。間違いなく、【授冠の乙女】はローザ・ブランデンブルク。貴女です。」
・メルダース「そうか!その女か!」
メルダースもまた、ローザのもとに近寄ろうとする。
・グレッス「控えていろ、六の王。お前のような者にこのお方を渡すわけにはいかない。」
・メルダース「何様のつもりだ?なんのつもりで俺に指図する?」
・グレッス「お前は、今ここに来て、何をするつもりだった?この方を攫い、自らの手のもとに置くつもりだったのでは?」
・メルダース「そう言うお前は何をしにここへ来た?同じ腹積もりであろう?」
グレッスは大きくため息をつく。
・グレッス「お前のような下賤な輩と一緒にしないでもらおう。私は婦女子を力づくで連れ去ったりはしない。」
グレッスはそう言うと、ローザの前に跪く。
・グレッス「お迎えに上がりました、姫君。どうか私と共にお越しいただき、私に帝冠をお授け願いたい。」
・メルダース「やっていることは同じじゃあねえか!!」
メルダースは背に背負う長剣を抜きつつ、グレッスに斬りかかる。
跪いた体勢からグレッスは華麗に身をかわし、剣劇を避ける。ローザは小さく悲鳴を上げて後ずさる。
・グレッス「邪魔をする気か?六の王。」
・メルダース「当たり前だ!むしろ探す手間が省けたぞ、一の王。ここで息の根を止めてやろう。」
・グレッス「そうか、なればこちらも応じねばなるまい。」
グレッスは腰のサーベルを抜く。
・グレッス「我は一の王。高潔を尊ぶ者。栄誉を育む者。数は1、札はエース。名はガエル・グレッス!いざ尋常に!」
グレッスの剣先から炎が迸り、メルダースの剣先が轟音を立て始める。
「高潔、ねぇ…。」
ローザの隣から声がする。今まさに戦おうとしていた二人が動きを止めて振り向く。
「高潔を尊ぶと宣う王様が、やっていることは野蛮なエテ公と大差ないじゃあねえか。」
ローザが恐る恐る振り向くと、そこにはアル・トゥヘルがいる。
しかし、今の彼には、ローザが知るような伏し目がちの温和な瞳も、寂しそうな笑みもない。
刺すような眼差し。その鋭い眼光は狼のようだった。
・グレッス「何を言う?何が言いたい?お前は何者だ?」
・トゥヘル「ああ、言いてえのはな、所詮はお前もこの女をかどわかしに来たんじゃねえか、ってことだ。仰々しく跪いたりして、気障な野郎だ。所詮は高潔を謳う騎士様も、そこにいきなり飛んできたエテ公も結局同類じゃねえかってことよ。」
・メルダース「エテ公?それは俺のことを言っているのか?」
空気が張り詰める。トゥヘルはゆっくりと前に出ていく。
・トゥヘル「ほかに誰がいるんだよ。いきなりデケェ音立て土埃を舞い上げ出てきやがって。」
・メルダース「…どうやら先に死にたいようだな。」
トゥヘルは口角をあげて言う。
・トゥヘル「やってみろ、エテ公。てめえの足りねえ頭でできるんならなァ!」
襲い掛かろうとするメルダースをグレッスが制止する。
・グレッス「待て!六の王!安い挑発に乗るな!」
グレッスの炎がメルダースの行く手を遮る。
・グレッス「お前は何だ?なんのつもりだ?まずは名乗ってもらおう。」
「我は無。盤面を覆す者。潮目を狂わす者。数は0、札は鬼札。名はテオバルト・シュナイダー。」
トゥヘルが名乗る。
「この世界に仇為す者だ。」
―つづく。