7話 棚倉なな実の場合
小一時間、犬について聞かされた後、華菜の研究室を出ると、なな実が立ち止まって、華菜のポメラニアンのような顔になった。
「本当にごめんね。黙っていたこと」
「怒っていないから、謝らないで。むしろ、ありがとう。私のことを考えててくれて」
なな実は泣きそうな顔になったが、涙は流さなかった。アンドロイドのタンクに水を入れていないから、涙を流せないのだろう。
出会ってから、なな実が泣いているのを見たことがない。
彩愛は思いかけて、本当にそうだったのだろうかと考える。
AI彩愛の記憶の中にないだけで、生身の彩愛は見たことがあるかもしれない。
−−−そうやって補正されてしまったら、私が彩愛だったかも信じることも、疑うこともできなくなる。
「彩愛に秘密にしていたから、私の秘密を話すね。こっちきて」
彩愛の腕を引っ張り、なな実はエレベーターに乗って四階のボタンを押した。
先ほど乗った時には階の標識に気が付かなかったが、二階は研究室とあり、今から向かう四階は病院・病室と書いてあった。
彩愛はコードに繋がれた生身の身体を思い出し、病院というところに行くのが気が引けてしまった。
「どこに行くの?」
「私の生身がいる部屋。アンドロイドとは顔とかまったく違うから驚くと思うけど、彩愛には見てほしいんだ」
いつも明るいなな実が、身体を動かすことができず、寝たきりという姿が想像できなかった。
エレベーターを降りると、なな実は気軽そうにナースセンターにいる看護師たちに手を振ってから、病室へ歩いていく。
病室が並ぶ廊下には人の気配がなく、扉も閉められているため、どのくらいの人がここにいるのか、彩愛には見当がつかなかった。
自分らの足音しか聞こえない静かな廊下で話すの気が引け、黙ってなな実の後ろをついていく。
「ここ」
なな実が足を止めて、病室の扉を横に滑らせるとカーテンで仕切られた四つのベッドが見えた。
消毒薬と得体のしれない臭いが混ざり、なんとなく彩愛は長居をしたくないと思った。
なな実はためらいもなく、右奥のベッドのカーテンを開ける。
ベッド横にはモニターや機器が置かれ、そこから何本ものチューブやコードが走り、ベッドで寝ている人物へ繋がっている。
布団をかけられているせいで、身体全体は見えないが、頭だけではなく身体にもコードが繋がっているようだ。
小学生くらいの大きさの子どもが、横に立っているなな実と結びつかなかった。
「これが私の生身」
「この子がなな実…?」
「うん。全然似ていないでしょう?アンドロイドの顔つきは、お母さんの子どもの頃をモデルにしたんだ。
自分でも変な物体に見えるよ。コードや神経センサーを外したら、私は他の人に意思を伝えられない、置き物になる。気がおかしくなっても、それすら他の人に伝えられないんだ。だから、私は一生コードに繋がれて生きていく。もし、停電とかでアンドロイドとの交信が止まったらって思うだけで地獄だよ。
でも、唯一生身から交信を止めるときは、私が死んだ時。私が死んだらアンドロイドも止まるし、データも記録してないから、棚倉なな実はこの世界から消滅する」
「…なな実は死ぬのが怖くないの?」
二人は生身のなな実を見つめていた。
規則正しくシュコーシュコーと人工呼吸機が音を立てる。
「怖いけど、もっと怖いのは外部との接触が切れることかな。長生きもしたいとは思わないんだ。アンドロイドを造ったお金も維持費も、生身の入院費もすごくかかってるって知っているし、親に負担かけてるって。だから、寿命で死のうと思ったんだ。
自分でこんなことを言っておいて、すごくわがままなことを言うよ。私は彩愛が撃たれて、このまま意識が戻らなくて死んだら…会えなくなったらと思ったら悲しかった。彩愛が、もしAIとしてこの世界にいることに悩んでいるなら、私の生きている間だけでもいてほしい」
「ねえ。私はなな実から見たら、彩愛に見える?おかしくはない?」
「彩愛に見えるよ」
「見た目が彩愛だからではなくて?」
なな実は彩愛の片腕を握った。なな実の温かな手も握る力も、アンドロイドとは思えないほど、リアルだった。
これも人間の体温だと認識するように、プログラムされているせいだろうか。
「彩愛だよ。そういう話し方も、不安になるのも、真面目な彩愛だから出てくる言葉だよ。
覚えているかな?初めて会った時、私は人見知りでクラスの子たちに声をかけられずにいたのを、彩愛が声かけてくれて。人と違うように過ごしてきて、中学のときも馴染めなかったから、自信がなかった。それが、彩愛が声かけてくれて、凛とも友だちになれて、今はとっても楽しいんだ。だから、大切な友だちの記憶があるAIだもん。あなたは彩愛で、私の大切な友だち。
この研究所で出会った人たちは、生きている人たちのように悩んだり、苦しんだりしている。私は人の記憶のコピーだろうと、AI搭載型アンドロイドの人たちを人形だとは思えない」
−−−彩愛をコピーした模造品。
自分でデータを消せと言う、龍之介の声が蘇り、思わず目を閉じる。
龍之介の言葉や考え方に揺さぶられ、禁忌を犯しているような罪意識に囚われてしまう。
生身の彩愛が龍之介から受けた教えを、AI彩愛の記録にほとんど残っていないというのに。
彩愛が自分の意思で生きていたと思っていたのは、錯覚だったようだ。
「私は彩愛として、いていい?」
「うん、いていいよ。いてほしい」
目を開けると、生身のなな実が懸命に生きている姿があった。
すでに生物ではない自分が、生きるというのはおかしいのだろう。
だが、死にたくないという感情は強くある。
この感情はAI彩愛が作ったものではなく、生身の彩愛が持っていたものだ。それは信じていいのではないだろうか。
「ありがとう、なな実。元気になった。なな実がいてくれてよかった。なな実がいてくれなかったら、多分、AIになったって受け入れられなかったし、おじいちゃんの言う通りにして、データとか壊していたと思う。
また悩むことがあるかもしれないけど、愚痴を言ってもいい?」
「もちろん!私の愚痴も聞いてね」
なな実が腕を放すと、扉が開く音がした。
医療品を載せたワゴンを押しながら、女の看護師が病室に入ってきて、腕時計をちらりと見た。
「ああ、なな実ちゃん。いたの」
本来ならアンドロイドのなな実は、学校にいるはずだ。
なな実も看護師の疑問を察したのだろう。
彩愛の両肩を掴んで、看護師に見せるように立たせた。
「今日、アンドロイドになった彩愛だよ。学校に行ってたんだけど、生身の容態が急変してここに連れてきたの」
「その子が、彩愛ちゃんね。なな実ちゃんから話を聞いていたわ。本人が亡くなってしまって残念だったわね。これからも、なな実ちゃんと仲良くしてあげてね」
なな実は少し恥ずかしそうに笑っていた。
この看護師とは付き合いが長いのだろう。もしかしたら、親戚のおばさんのような存在なのかもしれない。
看護師はワゴンをなな実のベッドの脇に寄せると、点滴の袋を取り出した。
「なな実ちゃん。ごはんの時間だよ」
「はーい」
なな実は嚥下する力がないため、食事は点滴である。
幼いアンドロイドのなな実が傍らで見ながら、看護師たちが食事を与えるように点滴をしているのを想像すると微笑ましかった。
カーテンで仕切られて見えなかったが、なな実と同じように他の患者たちの名前を呼んで、看護師は点滴をつけていった。
「ここにいる人たちは、なな実と同じ?」
「そう。アンドロイドを使って生活している。年齢はバラバラだけど、みんな仲間みたいに思っている。
私が一番重症だけどね」
病気で身体が不自由になった人や、社会人になってから事故で首の下から動かなくなった人など、事情は様々なようだ。
なな実は仲間と言ったが、それでも生まれてから人とコミュニケーションが取れなかったなな実が、打ち解けるまで時間がかかったそうだ。
「仲良くなれたと思ったら、退院や転院しちゃったり、アンドロイドの維持費が高くてやめちゃって、ここからいなくなる人もいた。
アポトーシスに狙われて、アンドロイドを壊されちゃって、それから怖くなってアンドロイドで生活できなくなった人とか。
アポトーシスとか、アサナシオスとか、本当にメイワク。みんな必死で生きているのに、自分たちの主義とか押し付けないでほしい」
なな実は彩愛が考えていたよりも、アポトーシスやアサナシオスによって傷つけられた人たちを見ていたのかもしれない。
だから、アサナシオスによって両親を殺された彩愛を腫れ物のような扱いをせず、友だちになれたのだろう。
「酷い目にあっているのは、私だけじゃなかったんだね」
「患者だけじゃなくて、ハナちゃんのような研究者もアサナシオスに研究データを狙われたりしてて、危ない目にあっているんだ。ここの研究所にいる人たち、みんな仲間で家族みたいなものなんだ。彩愛は一人じゃない。悩まなくていいんだからね」
「うん。ここにいる人たちを紹介してね」
「もちろん!」
看護師が病室内の患者の確認を終えると、ワゴンを押して出ていくと、入れ違いに、白衣姿の二十代の男性が入ってきた。
肌が白く、顔立ちも日本人離れしていて、ハーフかと彩愛は思った。
「あれ?なな実、学校は?サボり?」
「うん、サボり。ジェームズも知っていると思うけど、この子が彩愛」
二人は生身のなな実が寝ているベッドから離れて、ジェームズのそぼに行った。
ジェームズは彩愛を見て、一瞬悲しみをこらえるような表情になったが、すぐに笑顔を浮かべた。
「やあ、彩愛。元気そうだね。君のAIとアンドロイド製作に携わったから、毎日のように君のアンドロイドとAIを見ていて、俺的には久しぶりっていう感じだけど、君は初めましてだよね。
俺は相原ジェームズ。ジェームズって呼んで。親は日本人とアメリカ人なんだ。といっても、俺自身もAI搭載型アンドロイドだからね。よろしく。見た目は二十歳だけど、中身はオッサンだからギャップに苦しむって、なな実に言われる。
ああ、油科さんよりは、年行ってないから」
なな実もジェームズも翼をオジサンと言うが、翼はいくつなのだろうと思っていると、ジェームズが右手を差し出した。
握手するところが、アメリカっぽいなと彩愛は少し笑いそうになった。
「宗方彩愛です。よろしくお願いします。私の作成に携わったって、アンドロイドを作ったんですか?」
アンドロイドは彩愛の生身とそっくり作られ、ほくろの位置まで再現されているため、生身の身体を観察して誰かが作ったのだろう。
ジェームズが作ったと考えると、恥ずかしくなってきた。
「俺の専門はAIの方だから、完成した君のアンドロイドの顔というより、内部をよく見ていたって言ったほうがいいね。君のアンドロイド製作は、女性作家がやっている。
本人の意思がある場合、作家と打ち合わせしたりするけど、ない場合はアンドロイドの性別と作家の性別は同じにする方針なんだ。
男でも女性作家にあれこれ身体を見られるのは、恥ずかしいしね。
立ち話もなんだから、座って話そう」
「ジェームズさんは、ここに用事があったんじゃないんですか?」
「彩愛がここにいるって聞いて、会いに来たんだ。等々力先生が問題ないとは言っていたけど、制作チームの一人として動作とか確認したいからね」
ジェームズは、生身と切り離されて、単独で動いているAI搭載型アンドロイドの様子を確認したかったのだろう。
「ジェームズは、彩愛が自分がAIだと知って傷ついたんじゃないかと思って、心配して来てくれたんだよ。ジェームズは優しい人だから、AIやアンドロイドを使い始めた人たちの相談をよくのっているんだ。顔もイケメンだし、女性ファンも多いんだ」
なな実がジェームズに聞こえないように、こっそり耳打ちをした。