賢木巻~塗籠事件~
『中宮は、参内は気が重いものの、東宮にお会いできないのは気がかりにお思いである。頼みにする人もいないので、大将の君(光る君)を万事頼りにしておられるが、好ましくない御心が収まらないので、胸を痛めることが度々おありである。故院が少しもお気づきにならなかったことも恐ろしく感じるのに、まして今そのような噂が立てば、わが身はともかく、東宮にとって良くないことになるだろうと、御祈祷までさせて光る君のお気持ちを思いとどまらせようとなさった。あらゆることに気をつけて避けていらしたのに、思いもかけず、すぐ側までお入りになってしまった。慎重にご計画されたことで、気づく人もなかったので、夢かとおもうような出来事であった。
光る君は、ここに書きあらわせないほど、さまざまに訴えられたが、宮はまったくお聞き入れにならず、ついには御胸をひどく痛めてお苦しみになられるので、近くに控えていた命婦や弁といった女房たちが、驚いて介抱申し上げる。
男君(光る君)は、辛さのあまり暗闇の中にいるようで、理性も失せてしまったので、夜はすっかり明けてしまったが、お帰りにならなかった。
中宮がご病気になられたことに驚いて、人々がおそば近くまで足繁く出入りするので、光る君は呆然としたまま、塗籠に押しこめられていた。お召し物を隠し持っている女房たちも、ひどく落ち着かない気分である。
宮は、万事つらく思っていらした上に気逆となり、いっそうお苦しみになられる。かろうじて、日暮れ頃に回復された。』
寝殿造りの建物は、基本的に柱と取外し可能な板壁や建具で仕切られています。その中で、固定した塗り壁に囲まれた空間を、塗籠といいます。元々は神聖な空間で、大事な宝物を保管したり、主の寝所となる場所でしたが、そのうち物置になりました。ここでは、納戸として使われているのではないかと思われます。
塗籠のすぐ傍に、藤壺宮が臥せっている寝台があるはずで、その隣に、普段過ごしている御座所があります。
屋敷を抜け出す機会を逸した光る君は塗籠に隠されたわけですが、気になることがあります。
気にしてはいけないのは分かってます。なんといっても雅な物語ですから。
でも、どうしても気になってしまいました。
トイレ、行きたくなりませんでしたか?
なにしろ夜中からずっと口説き続けて、明るくなったら塗籠に押し込められて、外に出ることもできず夕方まで閉じ込められていたわけです。空腹や喉の乾きはなんとか我慢できても、これは我慢出来ないでしょう。
ええ、分かってます。気にしてはいけないポイントです。
『光る君が塗籠に籠もっておられようとは思いもされず、女房たちも、また御心を乱してはいけないと、申し上げなかったのだろう。中宮が昼の御座にいざり出ておいでになる。ご気分が良くなられたようだということで、兵部卿宮も退出されて、御前には人が少なくなった。女房たちはほとんどが物陰に控えていて、命婦などは、「どのようにしてお帰りいただきましょう。」などと考えこんでいる。
君は、塗籠の戸をそっと押し開けて、屏風の隙間に添って部屋にお入りになる。めったにない機会なので、うれしさに涙ぐんで中宮を拝見なさる。
まだ苦しげに外をご覧になっているその横顔は、言いようもなく優美に見える。箱にきれいに盛った果物が置かれているが、ご覧にもならず、ひどく思い悩んでおられる様子は、並々でなくかわいらしく思われる。髪の生え具合、頭の形、髪の落ちかかっているようす、この上ない美しさなどは、まったく、あの対の姫君(紫の上)と違うところがない。ここ数年はお姿を忘れかけていたのだが、驚くほど似ていらっしゃるのを見ると、少し物思いが晴れるお気持ちになられる。
こちらが気後れしてしまうほど気高いご様子も、別人と思えないほど似ておられるが、やはり、昔から誰よりもお慕いしてきたからか、本当にますますお美しくなられたことよと、気持ちが高ぶり、そっと御帳の内に入り込んで、御召し物の裾を引き鳴らされる。
その人とはっきりわかるほど、さっと香の香りがしたので、中宮は呆れて不快にお思いになり、そのまま臥してしまわれた。』
そういえば、空蝉さんのときも香りでバレてましたね。なのになぜ今まで誰にも気づかれなかったのでしょうか。
それにしても光る君、懲りない上にどうしてこうも鈍感なのでしょう。
藤壺宮が倒れたのは自分のせいだというのに、『らうたげ(可愛らしい)』とか言ってます。
気逆というのは漢方の考え方ですが、頭がのぼせたようになって、頭痛とかめまいとか動悸とか息苦しさがおきる状態です。自分の思いだけで行動しないで、ちょっとはそんな宮様を思いやりましょうね。
それに、身代わりが本命にそっくりだから、ちょっと気が晴れたとか言ってるあたり、紫の上が可愛そうです。
引っ叩いてやりたいところですが、理性が飛んでいるようなので、どうしようもありませんね。
『「せめてこちらを向いてください。」
と、焦れて中宮の衣をお引き寄せになる。中宮はその衣を脱ぎすべらせて後ずさりなさるが、御髪もともにつかまれていたので、逃れがたい宿縁のほどを思い知らされるようで、辛くお思いになられた。
男君も、長年抑えていた心がかき乱れて正気を失ったようになり、あらゆる恨み事を泣きながら申し上げるが、中宮は本当にうとましいとお思いでお答えにもならない。ただ、
「気分がとても悪いものですから。別の機会があればお返事申し上げましょう。」
とおっしゃる。さすがに気の毒とお聞きになるところも混じっていたのだろう。過去にもなかったわけではないが、再び過ちをおかすのは、とても不本意なので、優しい接し方ではあるが、うまく言い逃れなさって、今宵も明けてゆく。
強いて御言葉に逆らうのも畏れ多く、こちらが気恥ずかしくなるほど立派なご様子なので、
「ただこのようにしてだけでも、時々ひどい愁いを晴らすことができますならば、なんの大それた気持ちを起こしましょう。」
などと申し上げて、中宮のお心をやわらげようとなさる。
通常の逢瀬でさえ、このような関係はしみじみとしたことが付きものであるが、ましてこの御二人の場合は、たぐいないものである。
夜が明けてしまったので、王命婦と弁の二人は、さまざまに御忠告申し上げる。中宮は、ほとんど魂が抜けたかのような御様子である。君は心苦しく思い、
「生きているのも恥ずかしいことですが、このまま死ぬとしたら、それもまた来世にわたる罪となるに違いありません。」
などと、恐ろしいまでに思いつめていらっしゃる。
「いつまでもお逢いいただけないのなら、あと幾つの来世を嘆きながら過ごせばよいのでしょう。」
と申し上げると、中宮はふと嘆息されて、
「ながき世の 恨みを人に 残しても かつは心を あだと知らなむ
(長く幾世にわたる恨みを私の上に残しても、それは一方では、あなたの心の不誠実さだと知っていただきたいのです)」
何でもないようにおっしゃる様子が、どんなに言葉を尽くしても甲斐がないような気がして、呆然としてお帰りになった。
「どうして再び顔を合わせられようか。この上は、気の毒だとお思いになるまでお待ちしよう。」
と、御手紙もさしあげない。
宮中や春宮への参上もせずに引きこもってしまい、寝ても覚めてもつれない人を恋しがり、人に見られたら恥ずかしいほど嘆いているうちに、気力も絶えてしまったのか、まるで病気になったような気がしてくる。どうして生きていると嫌なことが増えていくのかと、いっそ出家しようとも思われるが、この姫君(紫の上)がたいそう可愛らしく、心から頼りにしているのを、ふり棄てて出家することは、とてもできない。』
藤壺の宮からすれば、無下にもできないし受け入れるわけにもいかない困った人なんですが、光る君からすると、自分と宮様しか見えていないので、「どれほど言葉を尽くしても、どれほど心を尽くしても受け入れてくださらない、冷たい人」となるようです。
傍から見ている読者からすると、駄々をこねている子供のようです。
もっと、周りを見ましょうね。
『中宮も、その折のことを引きずっておられる。光る君がこのように引き込もって挨拶もよこされないのを、命婦などは気の毒に存じ上げる。
中宮も、春宮の御為をお考えになると、
(御心の距離を置かれるようになっては東宮が不憫だし、この世をつまらないものに思われれば、出家を思い立たれるかもしれない。)
と苦しくお思いになる。
(このようなことが続けば、気苦労の多い世に、悪い噂までも漏れ出してしまう。大后が不快にお思いという中宮の位を去ることにいたしましょう。)
と考えるようになられた。
故院が、並々ならぬ御心づかいで仰せおかれたことが思い出されるにつけても、
(すべて、昔とは変わってゆくのでしょう。戚夫人のようなことにまではならずとも、世間の物笑いになるような事が起こるにちがいない。)
と、俗世間がうとましく、生きづらく思われるので、出家を決意されるが、東宮にお会いせずに尼姿に変わるのは悲しく思われるので、お忍びで参内された。』
戚夫人というのは、漢の初代皇帝劉邦の側室です。劉邦に寵愛されていたうえに後継者を巡ってひと悶着あったので、皇后の呂氏に恨まれてました。皇帝が亡くなった後、息子ともども殺されたそうです。
平安初期までならともかく、この頃は廃嫡されたからと言ってそこまで酷いことにはなりません。でも、いわばムラ社会の貴族社会で一旦名誉を失うと一生それがつきまとうし、子供のことを考えると、余計な疵はつけられません。
子供のことを一心に考える宮様に対し、自分のことだけ考えている光る君。
あなたも一応父親です。しっかりしましょう。
命婦さんがこの人を気の毒だと言ってますが、全く同意できません。
『東宮はとても可愛らしく成長なさって、母宮(藤壺中宮)との稀なご対面がうれしくて、まつわりついていらっしゃる。母宮は、しみじみ愛おしく、出家のご決心が揺らぎそうであるが、宮中のありさまをご覧になるにつけても、世間は儚く移り変わりやすい。大后の御心もとても厄介で、このように宮中に出入りするのも気詰まりで、東宮のこの先も危ぶまれる。
「お会いしないでいる間に、私の姿が嫌なふうに変わってしまいましたら、どう思われるでしょうか」
と仰せになると、東宮は母宮の御顔をじっとご覧になられる。
「髪は短くて、黒い衣などを着て、夜居の僧のようになりましたならば。ますますお会いできることも減りましょう。」
とお泣きになると、東宮は真剣になって、
「長くお会いできないのはさみしいのに。」
とおっしゃる。涙が落ちると、恥ずかしいとお思いになって、顔を背けなさる。御髪はゆらゆらと清らかで、目元が好ましく輝いていらっしゃるさまは、ご成長なさるにつれて、まったくあの方の御顔をそっくり移し変えたようでいらっしゃる。すこし虫歯になって口の中が黒みがかっていて、お笑いになるときの艷やかな美しさは、女として拝見したいと思うほどである。「これほど似ていらっしゃるのが、とても心配なこと。」と、玉の瑕と思わずにいられないのも、世間の面倒な取り沙汰を恐ろしくお思いになるからである。』
このとき東宮五歳(満年齢なら四歳)。そりゃあお母さんが恋しい年頃です。東宮だから内裏に住まなければならないけれど、藤壺宮は内裏に住むことはできません。代変わりしているうえに、皇太后と確執がありますからね。身分のある人も大変です。
五歳くらいだと、髪はまだ肩にかかるくらいで結っていません。光る君の子供時代と瓜二つの東宮は、さぞかしかわいらしいことでしょう。目はキラキラして肌は輝くようで、歯は成人女性が鉄漿をつけているように黒くてきれいだと・・・
いや、ダメじゃないですか。そんな小さいうちから虫歯になっていたら。
本人はまだ痛くないんですかね。虫歯で黒ずんでいる口元を、きれいだと思う現代人は皆無でしょう。歯医者さんが見たら、怒って親(乳母)を説教することでしょうね。




