桐壺巻~尽きぬ悲しみ~
『命婦は、まだ帝がお休みになっていらっしゃらなかったことを、おいたわしく思う。
御前の壺庭の植え込みがいい具合に盛りであるのをご覧になりながら、ひっそりと、奥ゆかしい女房を四、五人傍に控えさせて、お話をさせていらした。
最近、朝夕にご覧になる長恨歌の御絵は、亭子院(宇多上皇)が描かれて、伊勢や紀貫之に歌を詠ませたものだが、和歌も漢詩も、ただこの長恨歌のような類のものを日常の話題になさっている。
帝は、たいそう細やかに更衣の実家の様子をお尋ねになる。命婦は、母君の哀れな様子をひそやかに奏上した。
御返事をご覧になると、「とても畏れ多く、身の置き所もございません。このような仰せ言をいただくにつけても、心が掻き曇り乱れる心地がいたします。若宮の身の上が気がかりでなりません。」などとある。無作法であるが、気持ちが落ち着かないせいだとお見逃しになるようである。
このようにひどく悲しんでいる姿を人に見せまいとなさるが、堪えきることは全くお出来にならない。更衣を初めて御覧になった時のことなど思い出し、何事につけても思い続けられて、生前は片時も離れてはいられなかったのに、こうして月日は過ぎるものだなと、情けなくお思いになる。
「故大納言の遺言をたがえず、宮仕えをさせるという願いを果たしてくれたお礼には、その甲斐のあるようにと思い続けてきたのだが。言っても仕方のないことになったな。」
と仰って、たいそう不憫なことと思いやっておられる。
「このようなことになったが、いずれ若宮が成長すれば、しかるべき機会もあるだろう。それまで長生きするようひたすら祈るがよい」など仰せになる。
命婦は、母君からの贈り物を帝に御覧に入れる。(長恨歌にあるように)亡き人の住処を尋ね出した証の釵であったなら、とお思いになるが、全く甲斐のないことである。
尋ねゆく まぼろしもがな つてにても 魂のありかを そこと知るべく
(冥界に尋ねていく幻術士がほしいものだ。人づてにでも更衣の魂のありかをそこと知ることができるだろうに。)
絵に描いた楊貴妃の容貌は、上手な絵師であっても筆力には限りがあるので、際立って美しいわけではない。太液池の芙蓉や未央宮の柳にも確かに似た容貌で、唐風の装いは端正ではあろう。しかし、親しみやすく可憐であった亡き更衣は、花の色にも鳥の音にも例えようがなかった。
朝夕の口癖に「翼をならべ、枝を交わそう」と約束したのに、叶わなかった命の限りというものは、尽きることなく悲しかった。』
原文では『尽きせず恨めしき』となっています。素直に訳すなら「尽きることなく恨めしかった」になるでしょう。
この部分、『長恨歌』の最後の一節『此恨綿綿無絶期』を意識していると思われます。ただ、この「恨」は、痛恨の思い、といった意味です。なので「恨めしい」ではなく「悲しい」としました。
唐の詩人・白居易の白氏文集は、平安貴族にとって漢詩のバイブルだったようです。
その中に含まれる『長恨歌』は、玄宗と楊貴妃に起きたことを題材にしています。
帝と桐壺更衣の関係が『長恨歌』になぞらえたもの、というのは有名な話らしいです。
ここでその一説が出てきたので、そもそもどんな内容か調べてみました。
長い詩ですが、内容はざっとこんな感じです。
皇帝は楊家の美しい娘を見初め、常に傍に置いて寵愛した。妃に夢中になった皇帝は政務を止めてしまい、その兄弟姉妹を重用した。離宮では華やかな宴が行われ、皇帝が終日歌舞音曲を愛でている間に、反乱がおきた。
反乱軍が宮殿に迫り、皇帝は都を落ち延びるが、途中で行軍は止まり、美しい妃は命を失った。その髪を飾っていた簪は地に落ちたまま拾い上げる人もなく、妃を救えなかった君王は振り返って血の涙を流した。
各地を彷徨いながら亡き人を思い続け、都へ戻ってみると、宮殿の池も庭も元のまま。
<太液芙蓉未央柳>。芙蓉は彼女の顔のよう、柳は彼女の眉のよう、これを見てどうして涙を流さずにおられようか。
時が流れ、皆老いたが、彼女を喪った悲しみは癒えることがない。
夢にも現れない彼女の魂を、皇帝は道士に探し求めさせた。
空の上にも黄泉にもその姿はなかったが、遠い海の向こうの仙山に、太真という美しい仙女を見つけた。その容貌は、探し求めていた人のものだった。
道士と会った仙女は寂しげに君王に謝辞を述べ、思い出の品である黄金の簪と螺鈿の小箱を持たせた。最後に、皇帝と楊貴妃の二人しか知らない言葉を送ったのだった。
『天に在っては願わくは比翼の鳥となり、地に在っては願わくは連理の枝とならん』
悠久の天地にもいつかは終わりが来るが、この悲しみが絶えることはないだろう
比翼の鳥;古代中国の想像上の生物。仲の良い夫婦の象徴。
連理の枝;古代中国の説話に登場し、夫婦の固い絆を表す。
結構しっかり長恨歌にかぶせてますね。帝の寵愛ぶりも嘆きようも、深い愛を誓い合った相手を喪って、尽きることのない悲しみの中にいるという終わり方も。
帝には亡き人を探す術はないので、この詩の道士のように、更衣の魂を訪ねてくれる者はいないだろうか、と思わず歌に詠んだのですね。
ところで、桐壺更衣の形見に釵があります。検索すると、なぜか武器の名前として出てくるんですけどね。
しかし平安時代の髪型は垂髪。釵なんて使うの?
使ったんです。本当は釵子といって、二又の形状をしています。最も格式の高い儀式の際は、平安時代でも髪上げ、つまり髪を結いあげて宝冠をつけていました。奈良時代とは違い、肩のあたりまで垂らしてから上にあげていますが。
滅多に出番はなかったでしょうが、もしかしたら、帝には思い出の品だったかもしれません。
『風の音、虫の声につけても、ただもの悲しく思われるのに、弘徽殿の女御は長いこと上の御局にも参上なさらず、月が美しいからと、夜が更けるまで管弦の遊びをなさっているようである。その楽の音を、帝は実に興覚めで不愉快に思いながらお聞きになる。この頃のご様子を拝見する殿上人や女房などは、はらはらする思いで聞いていた。
弘徽殿女御はとても我が強く、刺々しいところもおありになる方なので、(帝の悲しみなど)何ともお思いにならず、こういう振る舞いをなさるのだろう。
そうこうしているうちに、月も沈んでしまった。
雲のうへも涙にくるる秋の月 いかで澄むらむ浅茅生の宿
(宮中ですら涙にくれて秋の月が見えないくらいだから、あの雑草が生い茂った宿では、どうして月が澄んで見えるだろうか=どんなふうに暮らしているだろうか)
若宮を思いやられつつ、燈火を掻き立てながら起きていらっしゃる。右近衛府の役人の宿直奏の声が聞こえるのは、丑の刻になったということだろう。
人目をはばかり御寝所にお入りになっても、まどろむことも難しい。朝起きようとされても、更衣が存命の時は、夜が明けるのも知らず眠っていたことを思い出されて、やはり朝の政務は怠りがちになられるようだ。
食事などもお召し上がりにならない。朝餉の間で形だけお箸をおつけになって、正式な昼の御膳などは、とても食べる気になれないとお思いになっているので、お食事の給仕に携わる人々は、帝のこのようなおいたわしい御様子を拝見して嘆いている。
近くお仕えしている人々は全て、男も女も、たいそう困ったことですね、と言い合わせては嘆く。そこまでの前世からの契りではいらしたのたろうが、周囲の人のそしりや恨みをも憚りなさらず、あの方の事に関しては道理をも失われ、亡くなられた今は、このように政務をも思い捨てられたようになっていくのは、大変困ったことであると、他国の朝廷の例まで引用してひそひそと嘆息した。』
弘徽殿は清涼殿のすぐ近くです。夜更けまで管弦の遊びをしていたら、帝のいる清涼殿でも良く聞こえたことでしょう。帝は月を眺めながら桐壺の更衣を思い出してしみじみと悲しみに沈んでいるのに、楽し気な宴の様子が聞こえてきたら、嫌な気分になります。
弘徽殿の女御からすれば、憎らしい相手を悼む気もなければ、何か月も経っているのに配慮する気もないのでしょう。
帝のことはどう思っているのでしょう。いつまでも桐壷の更衣一人に思いを寄せて引きずり続けている夫には、愛想をつかしたのでしょうか。
ただ、体を気遣うくらいの配慮は見せて欲しいなあ。というか、思慮分別のある人なら見せるでしょうね。
眠らないし食事もしないというのは、困ったこと、どころではなく命の危機ですよ!