葵巻~葵の上の死~
毎年春(正月)と秋(八月)に、除目という人事異動があります。
春は県召という地方官の任命、秋は司召という中央官庁の人事が行われました。功績に応じて、というよりは、有力者とのつながりとか家格がものを言っていたようで、付け届けも普通にあったようです。
葵の上の出産は、秋の除目の直前の頃でした。
『宮中で秋の司召が行われることになっていて、左大臣も参上される。御子たちもそれぞれ功労にみあった昇進をお望みで、父君に引き続いて、皆お出かけになった。
左大臣邸の中は人が少なくひっそりしていた。葵の上が急に、いつものように胸をつまらせて、ひどくお苦しみになり、宮中にいる方々にお知らせする暇もなくお亡くなりになった。
誰も彼も、足が地につかないくらいに慌てふためいて宮中を退出なさる。除目の夜ではあったが、こういう止むを得ない差し障りが起こったので、儀式は皆、中止になったようである。
この大騒ぎが起こったのは夜半ごろなので、叡山の座主や名のある僧都たちもお招きすることができない。もう大丈夫だろうと気が緩んでいたところだったので、邸内の人たちは驚き慌てて、物にぶつかってばかりいる。
方々から御弔いの使いなどが集まってくるが、取次もかなわず、邸が揺れているような騒ぎで、人々の動揺と悲嘆は恐ろしいほどである。
物の怪がたびたび取りついていたので、枕などもそのままの状態でニ三日様子をご覧になるが、しだいに御身体の様子も変わってきたりしたので、もはやこれまでと断念なさる時は、誰も彼もがいたたまれないお気持ちである。』
一番危険な局面を乗り越えて安心していた上に、あまりに突然のことで、誰もが葵の上の死を受け入れられずにいます。
あまりにあっさりした書き方なので、初めて読んだ読者は、物語中の人々のように混乱したかもしれません。
御帳(寝台)は東西南北を意識して置かれ、枕は南側に置くものでした。そして、人が亡くなった場合は枕を北側にします。最近は気にする人も減りましたが、北枕は縁起が悪いと忌避していたのは、死者の寝かせ方だったからですね。
物の怪が離れれば息を吹き返すのではないかと、北枕にもせず待ち続けたのに、願いもむなしく死後の変化が現れていくというのも、痛々しいです。
葵の上は、何を思って亡くなっていったのでしょう。
内裏へ向かう光る君を見送るときの心情は、どのようなものだったのでしょう。
凛とした葵の上は、心をすっかり開くこともなく、この世を去ってしまいました。
『大将殿(光る君)は、悲しい上に生霊の件があり、世の中をたいそう辛くて嫌なものと身にしみて感じるので、並々ならぬ方々からの弔問も、ただひたすら辛いことに思われる。
院もお嘆きになり、弔問を遣わされる。悲しみとありがたい気持ちが入り混じり、左大臣は涙が乾く暇もない。
人の進言に従って、生き返りはしないかと、大掛かりな祈祷をさまざまに執り行い、一方ではご遺体が傷んでいくのをご覧になりながら、尽きることなく思い悩んでおられた。なんの効果もなく日がすぎて、もはや仕方がないと、鳥辺野にお送りする時は、ひどく悲しいものがあった。
御送りの人々や寺々の念仏僧などが、とても広い野に場所もないほどひしめいている。院は申しあげるまでもなく、后の宮(藤壺宮)、東宮などの御使、しかるべき方々からの御使も入れ替わり立ち替わり参って、言い尽くせないお悔みを申し上げる。
左大臣は立ち上がることができず、
「こんな年になって、若い盛りの子に先立たれて、這い回るとは・・・」
と恥じてお泣きになるのを、多くの人々が悲しく拝見する。
一晩中行われた儀式であったが、とてもはかないお骨のほかは何も残らず、夜明け前にお帰りになる。
人の死は世の常ではあるが、光る君はまだ多くをご覧になっていないからか、ひどく思い焦がれていらした。八月二十日すぎの有明の月が出るころなので、空のけしきもしみじみと情緒深い。左大臣が、親心ゆえに取り乱しておられるのを御覧になるにつけても、無理もないと痛ましいので、空ばかりを眺めている。
のぼりぬる 煙はそれと わかねども なべて雲居の あはれなるかな
(のぼっていく煙が雲と溶け合って、どれが貴女の煙か見分けがつきませんが、空全体が悲しく見えることですよ)
左大臣邸にお着きになっても、少しも眠れない。ここ数年の、葵の上のご様子を思い出しつつ、
「最後には自然と見直してくれるだろうと、のんびり考えて、いい加減な浮気もしたが、どうしてそんなふうに辛い思いをさせたのだろう。最後まで、私のことを親しめず気詰まりな者と思って過ごされたのだな。」
など、後悔することが多いが、もうどうしようもない。
鈍色の喪服をお召しになるのも、夢でも見ているようで、もし自分のほうが先立ったのなら、あの方はもっと深く衣を染めるだろうと、
限りあれば 薄墨衣 浅けれど 涙ぞ袖を 淵となしける
(決まり事なので、衣を浅い薄墨色で染めるが、私の気持ちは浅くはなく、涙で濡れた袖が淵となるほどに深い悲しみにくれている)
と念誦なさる様は、ますます優美で、声を低くして経をお読みになるご様子は、行いなれた法師よりも勝っている。
若君をご覧になるにつけても、『何に忍ぶの』とたいそう涙にくれておられるが、このような形見さえもいなかったらと、お気持ちをお慰めになる。母宮は意気消沈なさって、起き上がることもできない。お命も危なそうに見えるので、心配でご祈祷などおさせになる。
むなしく時が過ぎてゆき、法事の準備などはさせるが、思いもかけなかった事なので、悲しみは尽きない。
不出来な子でさえ、親はどんなにか辛く思うだろう。ましてこの姫君ほど優れた子を失っては、親が嘆き悲しむのは当然である。母宮は、ほかに姫君がいらっしゃらないことを、さびしいと思っていらしたのに、袖の上の玉が砕けたよりも嘆かわしいことである。』
結びおきし かたみのこだに なかりせば 何に忍ぶの 草を摘ままし
(後撰集)
(筐の籠(竹籠)がなかったら、どれに忍ぶ草を摘もうか
→形見となる子がいなかったら、何によって妻を思い出せようか)
可愛い子が生まれ、ようやく夫婦の仲も良くなろうかという矢先の不幸に、さすがに光る君も言いようのない悲しみに沈んでいます。
それにもまして、両親の嘆きは痛いほどです。
大切なものをなくす悲しみを表すのに、「袖の上の玉が砕けたよう」とか「掌中の珠を取られたよう」とかいう慣用句があるそうですね。
母宮は、それよりさらに深い悲しみの中にあるのです。
『大将の君(光る君)は、二条院にさえ、ほんのわずかもいらっしゃらない。しみじみと深く思い嘆いて、仏事の行いを誠実になさりながらお過ごしになる。
あちこちのお通い所にはお手紙だけを差し上げるが、あの御息所は、斎宮(御息所の娘)が左衛門の司にお入りになったので、さらに厳重な潔斎になることを理由に、お便りのやりとりもなさらない。
辛く嫌なものと思い知った世の中も、一切が厭わしくなって、子供がいなかったら願うままに出家しただろうに、と考えるのだが、まっさきに西の対の姫君(若紫)が心細くしている様子が、ふと思いやられる。
夜は御帳の内に一人で横になって、宿直の女房たちは近くに控えているが、すぐ隣に人がいないのが寂しくて目覚めがちである。声のよい者を控えさせていて、彼らが念仏を唱える暁方などは、耐えがたいほどである。
晩秋の風情を増してゆく風の音は身にしみることよ、と慣れない独り寝に、なかなか明けない夜がほのぼのと明けて、あたり一面に霧が立ち込めている中、咲きかけた菊の枝に、濃い青鈍色の紙に書いた文を結んで、黙って置いていった者がある。
「洒落たことをするものよ。」と御覧になると、御息所の筆跡である。
「いつもよりも優雅にお書きになられたな。」
妻に先立たれた光る君を思いやる内容ではあったが、白々しいご弔問であるなと、嫌な気持ちである。そうはいっても、お返事をさし上げないのも、御息所の名を貶めてしまうだろうと案じられる。
(亡くなった人(葵の上)は、いずれにせよ、こうなる運命だったのだろうが、どうしてあのようなこと(御息所の生霊)を、はっきりと見聞きしてしまったのだろう。)
我ながら悔しいことに、やはり御息所への気持ちを変えることはできないようである。
斎宮の御潔斎にも憚りがあるのではないかと、しばらくためらっていらしたが、わざわざお手紙をいただいたのに御返事しないのは情に欠けるだろうと、鈍色がかった紫色の紙に返歌をしたため、
「執着をお捨てください」
と付け加える。
御息所はご実家にいらっしゃる時だったので、ひそかにこのお手紙をご覧になる。気が咎めていたので、光る君が仄めかされたことがお分かりになって、やはりそうであったかと、いたたまれないお気持ちである。
(やはり限りなく辛い身だこと。このようなことが噂になれば、院もどうお思いになるか。亡き東宮と同腹のご兄弟の中でも、尊重しあっておられて、斎宮(御息所の娘)のことも、「亡き東宮に代わって、面倒を見ましょう」といつも仰せで、宮中に住むよう度々仰せられたことさえ、身に過ぎたこととご辞退したのに、こうして思いがけず、年がいもない物思いをして、ついには良くない評判まで流してしまうとなれば・・・)
とお悩みになると、やはり本来の調子にはなれない。
そうはいっても、世間一般には、奥ゆかしく趣味が豊かと評判の方なので、斎宮が野宮にお移りになった後も、面白く洒落たことをいろいろと工夫して、殿上人の中でも風流好きの連中などは、朝に夕に露を踏み分けて通っている、などお聞きになるにつけても、大将の君(源氏の君)は、
「もっともだな。趣味の良さはどこまでも備わっていらっしゃるのだから。もしあの御方が世の中に飽きて伊勢にお下りになれば、寂しくなるだろうよ」と、お思いになるのであった。』




