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源氏物語ってこんな話だったんだ  作者: 紫月ふゆひ
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源氏物語の世界⑮光る君のモデルーその2―

光る君のモデルと言われている人は何人かいます。

紫式部が仕えた中宮・彰子の父、藤原道長もその一人です。つまりは、紫式部の雇い主とも言えます。

道長と紫式部は、嵯峨天皇の時代まで遡れば同じ先祖にたどり着きますが、二百年ほどの間に、最上級の家と下級〜中級の家に分かれてしまいました。


道長は、摂政・関白も務めた藤原兼家の五男です。姉二人は冷泉天皇と円融天皇のもとに入内し、天皇の母となっています。名家の出で正室の子ではあるのですが、何しろ五男、同母兄弟の中でも三番目ですから、当初は目立たない存在でした。

性格は豪胆で、傲慢な振る舞いもあるものの、政務にも積極的に取り組み、文学や詩歌を愛好する人でもあったようです。


お父さんの兼家は兄弟間の熾烈な争いを経て権力の座につきましたが、その過程で、紫式部のお父さんも影響を蒙っています。

兼家が娘を嫁がせた円融天皇は、甥の花山天皇に譲位しました。兼家にとっては兄の孫なので、ちょっと関係は遠いです。紫式部父・藤原為時は花山天皇の教育係だったので、即位に伴って蔵人になりました。花山天皇が東宮とした懐仁(やすひと)親王は、円融天皇の皇子で兼家の孫です。兼家としては、早く譲位してほしいところです。

即位から二年後、十九歳という若さで、花山天皇は退位します。愛する女御をなくして落ち込んでいたところ、兼家の息子・道兼たちが騙すようにして出家させてしまったからです。

その後しばらく、紫式部父は不遇の時代を送ります。花山天皇の退位がもっと先なら、もう少し出世できたかもしれません。


さて、懐仁(やすひと)親王(一条天皇)が即位すると、兼家が摂政となります。

兼家亡き後、その権力を受け継ぐのは、長兄の道隆です。何しろ道長より十三歳年上で、一条天皇が即位する前にすでに公卿になっているのです。道隆は娘の定子を入内させ、やがて関白にもなって我が世の春を謳歌しましたが、孫の誕生を見ることもなく、一条天皇即位から九年後に病没します。

その後を継いだのは三兄の道兼ですが、こちらは十日程度で病没します。

後を継ぐのは、道隆の息子・伊周(これちか)か道長か、となるのですが、一条天皇の生母である詮子は道長と仲がよく、能力でも経験でも勝る道長が勝ちました。伊周(これちか)が浅慮で自滅したというのもあり、藤原氏の嫡流は道長の系統に移ります。


道長は十二歳の長女・彰子を一条天皇に入内させます。

姪の定子はこの時二十二歳。既に中宮となっていて内親王を産んでいました。が、これより前に、兄の伊周(これちか)が女性問題で花山法皇に矢を射かけるという不祥事を起こし、処罰されたショックで出家していました。

彰子はどうにか成人していたものの、まだ子どもが産める年齢ではなく、他にも何人か入内している人もいて、一刻も早く権力基盤を固めたかった道長は、入内した翌年に、彰子を中宮に立后しました。定子は皇后に格上げです。同じ年に定子は敦康(あつやす)親王を産みますが、そこから一年も経たずに難産で亡くなります。

この皇子は、彰子のもとで養育されることになりました。道長にとっては、孫が生まれるまでの保険のような存在です。やがて成長した彰子は、二人の皇子を産みます。紫式部が仕えたのは、この頃です。

それから程なく、一条天皇が病を患い、道長の圧力もあって従兄の三条天皇に譲位します。新たな東宮になったのは、彰子の産んだ敦成(あつひら)親王です。一条天皇の希望は定子の遺児である敦康(あつやす)親王でしたが、道長が押し切りました。譲位した一条天皇はまもなく亡くなります。一条天皇は穏やかな性格で、定子を最も愛してはいましたが、彰子との仲も良好でした。彰子は父である道長の強引なやり方に怒り、ぎくしゃくした関係になっていきました。


新たに即位した三条天皇も、道長にとっては甥ですが、生母が早くに亡くなったため、一条天皇に比べるとつながりは薄かったようです。即位の前年、道長は次女の妍子を入内させています。十八歳の年の差です。道長と三条天皇は仲良くなれず、妍子は内親王しか産まなかったので、病気を理由に退位させました。


敦成(あつひら)親王(後一条天皇)が即位し元服した後、道長の三女威子が入内します。そして、その年のうちに女御になり、さらに中宮となります。娘三人が后になった人なんていません。


この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば


こんな歌を詠んだのはこの頃だとも言われています。実際には道長が詠んだのではないという意見もありますが、この歌に象徴されるような権勢だったのです。道長を憚って、後一条天皇には誰も娘を入内させることはできませんでした。ただ、道長にとって残念なことに、威子も皇子を産むことはありませんでした。


後一条天皇は、三条天皇の皇子を東宮としていましたが、頼りになる後見役もおらず、道長の無言の圧力を感じて辞退しています。かわって東宮となったのは、彰子が生んだもう一人の皇子・敦良あつなが親王です。道長は四女嬉子をこの東宮に入内させ、嬉子は待望の皇子を産みますが、数日後に麻疹で亡くなってしまいました。このとき生まれた皇子はやがて後冷泉天皇となりますが、それは道長の死後のことです。ちなみにこの皇子の乳母は紫式部の娘だったりします。


道長は、三人の后の父であり、三人の天皇の祖父であり、天皇を凌ぐ存在感を持つ、実質的な最高権力者でした。摂関家全盛期を築いたのが道長です。

ただ、晩年は病に苦しみ、何人もの子に先立たれ、決して幸福とは言えなかったようです。


他家を圧倒し、並ぶもののない権勢を誇った道長の御堂流も、息子の代には凋落の兆しを見せ始めます。入内させた娘たちに皇子が産まれなかったからです。

まあ、ここまで見てわかるとおり、近親結婚を繰り返していますからね。無事に子供が生まれれば、ましな方だと思いますよ。

多産で知られたハプスブルク家だって、近親結婚を繰り返しているうちに子供を残せなくなって、スペイン・ハプスブルク家は断絶しましたから。


それにしても、源氏物語はいつ書き終わったのでしょう。思うままにはいかなかった青年期、権力の絶頂にある中年期、どこか寂しい晩年と、道長がモデルと言われるのも頷ける展開です。まるで道長の一生を見守って、それを投影させたかのよう。紫式部がいつ亡くなったのかは、わからないのですが。

紫式部が道長をどう思っていたのか、摂関家のやり方をどう感じていたのかも。

実際のところ、どうだったのでしょうね。


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