源氏物語の世界⑭男性の衣裳
女性の装束については以前書きましたが、そろそろ男性の装束についてみておきます。
写真や絵で見れば分かりやすいのですけどね。
季節によって生地が変わるのは男女とも同じですが、男性は官職につくとお勤めをしなければならないので、服装にも公私の別があり、公用の服には身分による決まり事がありました。
まず、参内する際の正装として「束帯」があります。
束帯姿の親王雛を持っていたり、即位の儀の映像を見たことがあれば、イメージは分かると思います。
ただ、現在知られているものは平安中期以降のもので、平安初期~前期はまだ奈良時代の雰囲気が強くて、もう少しあっさりした見た目だったようです。
元々は普段のお勤め着でしたが、次第に儀礼の際にも用いられるようになりました。
まず、下着は紅の単です。平安末期になると、袖口の狭い小袖が下着になりますが、物語の時代はまだ単です。
その上に衵を着ます。
衵は袖口が広くて丈の短い着物です。丈が短いので、童女も着たりします。季節によって裏地がなくなったり綿を入れたりするようで、男性用は概ね紅ですが、年齢によって変わることもあるそうです。表にはあまり出ないので、平織か綾で仕立てます。
それから袴をつけます。袴はなぜか二つ重ねます。紅で裾の広めの大口袴を下に履き、やや細めの表袴を上に履きます。表袴は、表地が白で裏地が紅になっています。この袴の文様は、身分や年齢によって決まりがありました。
二重にするのは、表袴を汚さないためではないかと思います。女性用の装束もそうでしたが、上着は直接肌に触れないようにするんですよね。当時は現代のように頻繁に入浴しないし、清潔・不潔の観念は無きに等しく、直接肌に触れると垢とか白粉で汚れるんだそうです・・・
さて、袴をつけたら、下襲を着ます。
前側は膝丈くらいで、後ろ側は引きずるくらい長くなっています。裏地のある袷になっていますが、季節によって表地の生地は紗だったり綾だったりしました。
引きずっている後ろ側は裾と呼びますが、だんだん長くなって、身分によって長さが変わってくるようになると面倒になったらしく、裾だけ別に作って下襲の上から腰に結びつけるようになりました(天皇と皇太子は例外)。そこまでして引きずらなければならないのか疑問ではありますが、こういうのは合理的にはできていないものです。
基本、朝廷内のみの室内着ですが、行幸のときなど、外を歩くこともあります。その際は、裾を帯に挟み込んだようです。
ちなみに下襲の色目(表と裏の色)は、季節や年齢、行事によって、決まりがありました。
その上に、半臂を着ます。袖がとても短く、腰丈で、裾には欄というプリーツがつけられています。文官の冬服では省略されたり、一時期使用しなくなったこともありました。生地や色は身分によって決まりがありました。
一番上に、袍を着ます。見た目は丸首ですが、上からかぶるのではなく、着物と同じように着ます。
文官は縫腋袍、武官や成人前の人は闕腋袍です。
何が違うかって、脇が縫ってあるかいないかです。脇というか、横がまったく縫われていません。現在の着物は、本当に腋窩部分だけ開いていて横は縫ってあります。縫っていないほうが動きやすいということですが、後ろ身頃が引きずるほど長いので、何か事が起こったら困るのではないかと思います。儀式用だからそういうことは考えていないかもしれません。貴族ではない下級武官はもっと簡単な格好をしていますしね。なお、武官と言っても行事や位によっては縫腋袍を着ています。
縫腋袍の場合は、裾に余分な襞がついています。これがないと、おそらくタイトスカートをはいているような感じで動きづらいのでしょう。闕腋袍は、そもそも横が縫われていないので、襞は必要ありません。
衵も下襲も、脇は縫われていないので、闕腋袍を着る人には半臂が必須です。夏は紗地で、下に着ているものが透けて見えるので、文官でも半臂を着ました。下襲が見えるのは恥ずかしいことだったらしいです。
袍の色は位によって決められています。当初は細かく別れていましたが、平安時代にはいくらか簡略化されて、最終的に、四位以上は黒・五位は緋・六位以下は緑もしくは縹(青)の三段階になりました。ただ、物語の時代はもう少し別れていたのではないかと思います。
若紫ちゃんが二条院に来たばかりの時、四位五位の人が色々入り乱れて面白いと眺めていたシーンがありましたが、黒と緋の装束の人達がうろうろしていたのでしょうね。
袍の上から石帯(革ベルト)を締めて、帯刀を許された人は、大刀を平緒でくくって佩き、笏を持ちます。懐には、帖紙と檜扇を入れます。
足は襪(靴下)を履いて、履を履きます。履は何種類かあって、用途によって変えていました。さすがに清涼殿に上がるときには脱いだと思いますが。
頭には冠をかぶっていて、その後ろに纓という飾りがあるのですが、文官は下に下げていて、武官は巻き上げていました。
地の紋や使用する生地、帯の飾りや細かい持ち物まで、身分によって規定があったそうです。
正月二日の挨拶回りの前、左大臣が自ら帯を持ってやってきて、光る君の支度を手伝うシーンがありました。この帯は石帯でしょう。袍を着るのは手間がかかるので人の手を借りなければできません。普通ならお付きの人たちがするところを、左大臣自ら手を出して甲斐甲斐しく世話を焼いたんですね。位階も官職も下にいるお婿さんに・・・。気の毒にもなるというものです。
「束帯」の変形バージョンとして、「布袴」というものがあります。
緊急の時や神社参拝の時などに着用するもので、表袴の代わりに、指貫という袴をはきます。普段着にも使う袴なので、動きやすいんですね。
でも裾は着けます。そこ、省略しないんだ・・・
「昼の装束」である「束帯」に対し、「宿直装束」である「衣冠」というものがあります。
衵も下襲も半臂も省略し、袴は指貫で、文官も武官も縫腋袍を着て、石帯は締めずに布の紐で締めました。革ベルトは苦しいらしいです。太刀を佩くことはありますが平緒は使わず、笏は持たずに扇を持ちます。時代が下ると、これが普段のお勤め着になったりしてます。
束帯よりは楽なのでしょうが、貴人を警固する宿直係としては、やっぱり動きづらそうに見えます。
普段着は「直衣」です。
普段着なので、身分による色や文様の縛りがありません。ただし、年齢によってある程度の決まりというか、慣習がありました。特別に許された人は、直衣で参内することもできました。
着るものは「衣冠」と概ね同じです。
衵を着る場合は、袴の中に入れずに外に出すこともありました。
袴は下袴の上に指貫。幅広の袴で、足首にくくり紐がついているので、それで絞ります。夕顔の亡骸を牛車に乗せて東山に送るところで、惟光くんがくくり紐を上にあげて縛りなおすシーンがありましたね。
上に着るのは縫腋袍です。おはしょりの作り方が「束帯」の時より簡単で、絹帯で締めるそうです。懐には帖紙を入れ、冬は檜扇、夏は蝙蝠(紙扇)を持ちました。
普段は冬でも素足で襪は履きません。御所では近代になっても帝の許可なく襪は履けなかったそうで、和宮が降嫁した際に、御所から来た人と江戸城の人とで揉めたという話もあります。絨毯もないのに素足なんて、寒そうですね。
頭には烏帽子をかぶりましたが、参内するときは冠をかぶりました。
摂関家全盛時代の平安中期、若い皇族男子は、この直衣姿に下襲を重ねることがありました。「大君姿」というそうです。ここ、後で出てきます。
身軽な服装として「狩衣」があります。
元々狩りのときに着るものだったので、一番動きやすくできています。
単の上に、指貫や狩袴をはいて、狩衣を着ます。狩袴は指貫よりやや細身の麻の袴です。頭は烏帽子ですね。
狩衣も脇が縫われていなくて、袖は後ろ身頃に縫い付けられています。袖口に紐がついていて、すぼめることもできます。肩に本体を引っ掛け、襟口をボタン(蜻蛉)で止めて、本体の後ろにくっついている袖に腕を通したら、布紐で腰を結ぶという着方です。これなら一人でも簡単に着られますね。
都の中産階級のおしゃれ着に、布衣という麻の衣裳があって、動きやすいんで鷹狩用に採用されたのだそうです。束帯や直衣に比べれば動きやすいでしょうが、狩にはどうでしょう・・・と個人的には思いますが、蹴鞠もこんな感じの衣裳でできるのだから、昔のお公家さんは器用なのかもしれません。そして意外に体も動かしていたようです。
貴族の狩衣は絹製で、重ねの色目にも気を配って雅に作られます。禁色を避ければ、色目も模様も自由でした。光る君も頭中将も、お忍びで女性のところに通うときに着てましたね。
狩衣はやがて貴族の普段着になり、武士階級の礼装にもなりました。現在も神職の人が着ているので、目にする機会は多いかもしれません。
こうしてみると、面倒な服装は徐々に消えていって楽な服装が多用されるようになっていくのが分かります。人間て、楽に流れるんですね。




