桐壺巻~母の嘆き、帝の哀しみ~
『しきたりがあるので、作法通りに葬儀を行うことになったのだが、母北の方は、同じ煙となって空に昇りたいと泣き、葬送の女房の車を追いかけて同乗した。愛宕というところで厳粛に葬儀が行われているところへ到着した時の気持ちは、いかばかりであっただろうか。
「亡骸を見ていると、まだ生きているのではと思うけれど、どうにもならないことだから、灰になるのを見届けて、もう亡き人になったのだと思うことにいたしましょう。」
と健気におっしゃるのだが、車から落ちそうになるほど倒れかかってしまうので、無理もないことと、人々はどうすればよいか困っている。』
これ、お母さんはしきたりに反して火葬の場へ向かったように読めますね。
子が親に先立つのは逆縁とされますが、親は葬列に参加しないとか、火葬場へ行かないという風習があるそうですね。いつからの風習か分かりませんが、平安時代にはあったということでしょうか。
その理由には諸説あるようですが、お母さんの嘆く様子に、周囲の人が『さは思ひつかし(そうなると思ったよ)』と感じているので、精神的に耐えられないだろうからという配慮説は、ありなんだと思います。
『内裏から御使いが来た。三位の位を贈ると宣明を読み上げるのが、悲しいことであった。
生前、女御と呼ぶことも叶わなかったことが残念に思われるので、せめて一つ上の位階をとお贈りになられたのだ。このことについても、非難する方が多かった。
物事の道理を知る方は、故人の姿容貌の美しかったこと、気立てが穏やかで感じが良く憎めない人であったことなどを、今になって思い出している。
見苦しい程の御寵愛だったために冷ややかに妬みもしたが、しみじみと思いやりのある人柄であったのを、上のお側に仕える女房達も懐かしく偲び合った。
「なくてぞ」とは、このようなことかと思われた。』
ある時はありのすさびに憎かりき なくてぞ人は恋しかりける (by源氏釈)
出典も詠み人も不明ですが、
生きている時は不満に思うけれど、死んでしまうと恋しく思う、という意味だそうです。
いや、生きてるときに味方になってあげて欲しかった。
まあ、要は帝が悪いって話ですかね。
娘に先立たれたお母さんの嘆きが辛いです。
ところで、源氏釈って何でしょう?私は初耳でした。
平安時代末期に藤原伊行という人が著した注釈本だそうです。
紫式部が書いた源氏物語の原本は残ってません。千年以上前だし、仕方ありません。一番古い写本でも鎌倉時代のものです。源氏釈に引用される本文はより古い時代のものなので、貴重な資料なんだそうです。それによると、その頃の源氏物語は三十七帖だそうです。数え方が違うだけで、内容や分量は変わらないようですが。現在に伝わっていない巻についても書かれているようですよ。ただ、これも現存するのは写本ですが。
『瞬く間に月日は過ぎて、帝は死後の法要なども綿密に行って、冥福をお祈りになられた。時がたつにつれ、どうしようもなく悲しく思われて、夜に女御更衣の方々をお側に侍らせることも全くなさらず、ただ涙にくれて日を送っていらっしゃるので、ご覧になっている方々までも、露(=涙)の多い秋である。
「亡くなった後まで腹の立つ人への、御寵愛の深さですこと」
と、弘徽殿女御などは、やはりまだ許せないようにおっしゃった。
一の宮をご覧になられても、若宮の恋しさばかり思い出されて、親しく仕える女房や乳母などを遣わして、ご様子をお尋ねになる。』