紅葉賀巻~行幸、散り敷く紅葉に光る君~
若紫巻にも末摘花巻にも、朱雀院への行幸という言葉が出てきました。
紅葉賀は、それに関連する行事から始まります。
時間は少し巻き戻り、光る君十八歳の秋。
帝は懐妊した藤壺宮を常にお側において、光る君は叶わない物思いに悶々とした日々を送っています。若紫ちゃんに求婚したり、常陸宮の姫君(末摘花さん)のとこに押しかけたりもしました。
そんな頃の話です。
天皇を退位すると太上天皇(上皇)となりますが、当時は院と呼んでいました。
院の住まいを後院といって、都の中に何か所かありました。
朱雀院は朱雀大路の西側にあった後院で、嵯峨天皇の時代に作られ、宇多天皇が整備して退位後に住んでいました。そのためか、宇多天皇の別称に、朱雀院太上天皇というものがあります。また、朱雀天皇もここを後院としたため、朱雀院と呼ばれました。
帝が内裏を出て朱雀院を訪れるということは、そこに院がいるということでしょう。藤壺宮のお父さんである先帝は亡くなっているはずなので、その前の帝ですかね。
『朱雀院の行幸は神無月の十日すぎである。今回はいつもと違い、格別に興深くなるはずであったので、後宮の方々は見物できないことを残念がられる。帝も、藤壺が御覧にならないのを、残念に思われて、試楽を御前にて催される。
源氏の中将は、青海波を舞われた。相方は左大臣家の頭中将である。容姿も心遣いも、並の人よりすぐれているが、光る君と立ち並んでは、やはり花のかたわらの深山木である。
夕方の日の光があざやかに射していて、楽の音が響き興もたけなわとなる中、光る君の足の運びや面持ちは、世に類ないものに見える。朗詠などなさるさまは、これが極楽浄土に住むという迦陵頻伽の御声だろうかと聞こえる。
素晴らしくしみじみと心を打つので、帝は涙をお拭いになり、公卿や親王たちも、皆お泣きになった。
朗詠が終わって、袖をさっと直されると、待ち構えていた楽が賑やかに奏される。お顔の色がいっそう映えて、いつもよりさらに光り輝いてお見えになる。
春宮の女御(弘徽殿の女御)は、このようにめでたいことでも、おもしろくないとお思いで、
「神などが、空から魅入りそうな容貌ですよ。不吉だこと。」
とおっしゃるのを、若い女房などは不快に思って聞いていた。
藤壺宮は、畏れ多い心のわだかまりさえなかったら、いっそう素晴らしく見えたろうと思われて、夢でも見ているように落ち着かない心持ちでいらっしゃる。
藤壺宮は、そのまま宿直された。
「今日の試楽は、すべて青海波に尽きたな。いかが御覧になられたか。」
と帝がお尋ねになると、藤壺宮は心ならずも、御答えをなかなか申し上げられず、
「格別でございました。」
とだけ申し上げる。
「相方も悪くはないと見えた。舞のさまや手さばきは、やはり良家の子は格別だ。世間に評判の舞人たちも、たしかに上手ではあるが、おおらかで優雅なところを見せることができない。試楽の日にこれほど上手を尽くしてしまったから、当日は物足りなく思えるかもしれないが、貴女にも御覧にいれたいと思って用意させたのだ。」
など仰せになる。』
光る君って、どれほどの美貌なんでしょうね。褒めすぎてて、逆にイメージできません。
頭中将くんはイメージできるカッコよさで、その姿も霞むほどに美しいのが光る君なんですね。
夕方の黄金色に輝く光の中、雅楽の音が神秘的に響き渡り、朗々とした詠唱と優美な身のこなしがひときわ感涙を誘って、まさに天上人の様相。
・・・後光がさしてしまって、さらに見えなくなりました。
『早朝、中将の君が、文を送る。
「いかに御覧になりましたか。またとない悩み事に、乱れた気持ちで舞ったのですが。
もの思ふに 立ち舞ふべくも あらぬ身の 袖うち振りし 心知りきや
(物思いのあまり、舞うことなどできるはずもありませんが、袖を振って舞ったこの気持ちを、お察しくださいましたか)
ひどく畏れ多いことです」
藤壺宮は、目にもあざやかであったご様子やお姿に、素知らぬふりをすることもおできにならなかったのだろうか。お返事に、
「から人の 袖振ることは 遠けれど 立ち居につけて あはれとは見き
(唐の人が袖を振って舞ったのは遠い昔ですが、貴方の立ち居姿を、しみじみ素晴らしいものと見ました)
格別でしたよ」
と送られる。光る君はこの上なく素晴らしいことと思われる。このような方面さえお詳しく、異国の朝廷のことまで考えを巡らせておられて、御后にふさわしいお言葉をすでにお使いでいらっしゃる、と微笑まれて、ありがたい経文のように、じっと見入っておられた。』
奈良時代以前、袖を振るのは求愛行為だったそうです。平安時代には何の意味合いもないし、そもそも舞いの動作として袖を振っていたので、わざわざ言わなければ誰にも分からないのですが、光る君は藤壺宮に向かって袖を振ったのだと言ってよこしました。他の人の目に触れたら大変です。きわどいことしますね。
その手紙の最後に、『あなかしこ(畏れ多いことですが)』とあります。
現在でも、手紙の最後に「かしこ」と書くことがあります。どういう意味かずっと謎だったのですが、『畏し』からきている言葉で、平安時代からの習慣だったんですね。すっきりしました。
やはり言葉は、つながっているものですね。
『行幸当日には、親王たちなど、全ての人がご奉仕に上がった。東宮もお出ましである。
例によって楽の船々が池を漕ぎめぐって、唐土や高麗などさまざまな舞が、種類も多く披露された。
楽の声や鼓の音が、四方に響き渡る。垣代などは、殿上人も地下人も、世間の評判が高く、道に通じた者だけを集められた。宰相二人、左衛門督、右衛門督が、左と右の楽の指揮をつとめる。この日に備え、それぞれ並外れてすぐれた舞の師を迎えて、自邸に籠もって練習してきたのだった。
木高い紅葉の蔭で、四十人の垣代が吹き立てる多くの楽器の音に、松の間を吹く風が合わさって深山おろしのように聞こえて、色々に散りかかりあう木の葉の中から、青海波を輝かしく舞い出したさまは、恐ろしいまでに美しく見える。
挿頭の紅葉がほとんど散ってしまって、光る君の顔の美しさに気圧されている印象なので、左大将が御前にある菊を折って、さしかえられる。
日が暮れかかる頃、ほんの少し時雨がぱらつき、空までも情趣を知っているかのようなところへ、そのような見事な姿で、移ろう色合いの素晴らしい菊を挿して、今日はまたとない妙技を尽くした。その舞い終わりの時には、ぞくりと寒気を感じるほどで、この世の事とも思えない。
風情を知るはずもない賤しい下人などでも、少しでも物の心を知る者は涙を流した。
承香殿の女御を母とする第四皇子が、まだ童であるが、秋風楽を舞われたのが、青海波に次いで見物であった。
これら二つの舞に面白さは尽きたので、他の催しは関心も移らず、かえって興ざめであったかもしれない。
その夜、源氏の中将は正三位に叙せられ、頭中将は正四位下に昇進なさる。公卿のしかるべき者たちは、昇進のよろこびに浴せられるのも、この君の恩恵を受けてのことなので、人の目を驚かし、心をも喜ばせなさる、この君の前世はどのようなものであったのかと思っている。』
舞いのシーンは、日頃の行いを忘れて情景のすばらしさを味わうところです。
雅楽は、左方(唐楽)と右方(高麗楽)に分かれていて、楽器も舞いの作法も装束も違うそうです。青海波は唐楽です。
夕焼けに照り輝いた試楽の日だけでなく、ぱらりとした天気雨の本番の日、紅葉散る夕暮れ時に天上人のごとく舞う光る君。見る人だれもが心を奪われるなんて、なかなかあるものではありません。
日本では古来、神事や節会の時に頭に花や枝葉を挿す風習がありました。おしゃれではなく呪術的な意味合いからで、どの花を使うかもおおむね決まりがあったようです。次第に造花になっていったようですが、光る君は本物を挿していますね。初めは紅葉だったのを、平安人がこよなく愛した移ろい菊に変えて、きっと神秘的で人間離れして見えたことでしょう。




