源氏物語の世界⑫恋愛と結婚
当時の習慣を聞いたことのある人は、ここまで特に疑問もなく読み進められたと思いますが、なんだかよく分からないと思った人もいたと思います。
今とはだいぶ違いますが、当時の恋愛や結婚にも、作法というものはありました。
光る君は好き放題やっているように見えますが、作法を忘れたわけでも、承知していないわけでもありません。
というわけで、ちょっと当時の様子を見てみましょう。
以前、男性の成人は十一~十六歳頃と書きました。女性もそのくらいです。男性は初めて冠をかぶるのが成人の儀式ですが、女性の場合は、初めて裳をつける裳着を行います。
成人した女性は、男性の前に顔をさらしてはいけません。でも、結婚相手は探さないといけないので、周囲の人や仲介者が、「誰それの娘が成人したけど、なかなかいい子だよ。」という噂を流します。雨夜の品定めで頭中将くんが嘆いていたように、正確な話ではなく、誇張することはよくあったでしょう。実物は見るまで分かりませんからね。
興味を持った男性は、最初のアプローチとして手紙を送るのです。
ここで軽く見られてはいけない、と思うからなのか、最初はつれない返事をするのが普通だそうです。男性側は、めげずに手紙を送り続け、何度目かでようやく色よい返事をもらえるのです。その気がなければ返事はずっと来ないそうで、光る君が常陸宮の姫君にイラついた理由はそこだったようです。姫君としては、奥手すぎてどうしたらいいのか分からないから放置していただけなんですけどね。
そうしてしばらく手紙のやり取りをするのですが、ここで相手のセンスや人柄、教養のほどを互いに測るのです。
薄い色紙に、墨の濃淡も見事に、少し崩した文字をバランスよく美しく見えるように書いて、和歌や言葉遣いなども気が利いていると、「素晴らしい人だ!」と気持ちが盛り上がるんですね。少しでも良く見せるために、歌や書が苦手な女性の場合は、女房が代筆することもありました。後でばれたら、「詐欺だ!」と言われそうですが。
恋文は細く折りたたんで結び文にして花などを添えて送りました。光る君は、北山の尼君への手紙の中に、結び文を入れていたのですが、これは、若紫ちゃんへの恋文という体裁なんです。
こうしたやり取りの中で、気持ちが冷めるようなら、それで終了です。
お互いに会いたいとなった場合は、吉日を選んで初デートとなるわけです。デートと言うより、会う=結婚、でしょうか。初日からいきなり床を共にするわけですから。
現代なら、初デートは日中が普通でしょう。この頃は、夜遅くに女性の家を訪れて、夜が明ける前に帰るのが決まりでした。客人が来るのだから、当然明かりをつけておくだろうと思うのですが、どうもそうでもないようです。夕顔は真っ暗な中で逢瀬を重ねていたようだし、常陸宮の姫君は、押し入ったくせにまだ姿形がわからないようですから。
正式な結婚の場合は、ちゃんと灯をともすらしいのですけどね。
さて、夜明け前に女性の家から戻ったら、後朝の歌を送ります。速やかに送るほど、本気だということです。そこは今も変わらないと思いますが、どうも恋歌を見ると、楽しげなものがないように思います。
逢ひ見ての 後の心に 比ぶれば 昔はものを 思はざりけり
(実際に逢ってみた後に比べたら、以前の物思いなんて大したことなかったよ。)
こんな感じで、辛い、苦しい、切ない、というものばかりじゃないでしょうか。恋歌にも型があったようなんですけれどね。
日本人は生来の悲観主義者が多いのかもしれません。
まあ、それはともかく、光る君が常陸宮の姫君に後朝の歌を送ったのは夕方になってからで、しかもその後しばらく放置してます。周囲にしっかりした人がいれば、非礼極まりないと怒るところです。軽んじられていい身分の人ではないのですから。
若紫ちゃんのところに居座ったときは、帰ってからどんな手紙を書こうかあれこれ悩んで、子供向けに絵をかいて送ったのでしたね。若紫ちゃんとは、まだ本当の結婚をするわけではないですが、それに準じた行動をしているのです。
さて、女性の方も返歌を送ります。常陸宮の姫君は、ここでセンスがないところを見せてしまいます。
古ぼけた紙に、時代遅れの書き方できっちりと書くのです。文章の上下を合わせて文字の大きさを整える書き方は、事務的な書類の場合は良いのですが、恋文としては色気も味気もなくて興ざめなのです。現代人が慣れているパソコンの文章を見たら、光る君は顔を引きつらせるかもしれません。
そうして三日間通ったら、結婚成立となるわけです。
若紫ちゃんの乳母が、代理の人間を寄こしたことに対して、「戯れとしてもひどいじゃないですか。」と文句を言っていたり、常陸宮の姫君とその女房達が胸がつぶれるような思いをしているのは、一日来ただけで、その後は来なかったからですね。
三日目の夜には、三日夜餅を食べる儀式があります。銀の皿に三枚くらい餅を盛り、それを食べるのですが、ちぎってはいけないとか、婿は食べきってはいけないとか、しきたりがあるようです。
晴れて結婚成立となったら、お披露目です。四日目の日中に、「露顕の儀」というものが行われます。舅が婿とその従者をもてなして酒を酌み交わし、公式に婿と認めるのです。
もっともこうした儀式は、しっかりした家族がいれば、の話ですね。
今までのところ、物語中でそれができたのは左大臣家だけでしょう。一夫多妻制といっても、葵の上以外は愛人であって妻ではないということになります。
この時代の結婚は、男性が女性の元へ通う通い婚です。特に若い人の場合、女性の実家が婿の面倒一切を見るのです。衣食住はもちろん、場合によっては官職の世話までします。
恋愛は比較的自由に見えますが(人妻に言い寄る男性たちもいたようですから)、正妻を選ぶとなると、普通の恋愛とは条件が変わってきます。本人よりも、舅の財力や権力が重要なんですよね。女性側としても、有望株でないと受け入れるわけにはいきません。だから、本人ではなく、家族が婿を選んだりします。
左馬頭さんは、若いころあまりそういう選り好みができる地位にいなかったのか、誰を正妻にしようかな~なんてやっていましたが、光る君と頭中将くんは、若いうちから政治的理由で正妻が決まっていました。頭中将くんは、実父も有力者なので舅に頼る必要もないようですが。
ある程度の年齢になって財力を持てれば、自分の邸を構えることもあるし、好きな相手を後妻にすることもあります。紀伊守さんとか伊予介さんがそうでしたね。でも、大輔命婦のお父さんは、常陸宮邸か新しい妻の家に住んでいますね。
この頃は、基本的に女系相続。家と土地は女性のものです。管理するには配偶者の稼ぎが必要ですけれども。二条院を相続した光る君は、特殊例なのです。もしお母さんに姉妹がいたら、その人が相続していたはずです。
ちょっと話がそれてしまいましたが、モテポイントは、恋愛と結婚(正妻選び)では違うということです。
そうすると、お父さんがいない女性が、いかに結婚において不利になってくるか分かります。
空蝉さんが親子ほども年の離れた格下の受領の妻になったのも、夕顔が右大臣家に脅されて身を隠す羽目になったのも、常陸宮の姫君が当時の感覚から言えば屈辱的ともいえる扱いを受けたのも、父親という後ろ盾がいないからです。
世知辛い話ですが、その点、現在よりシビアです。
余談ですが、在原業平のところで出てきた藤原高子は、入内が決まった時には父親は亡くなっていました。しかし、同母兄の基経が、摂政にもなった叔父・良房の養子になっていた関係で、何の心配もなく入内できたのです。
桐壺の更衣にもこんな親族がいたら、もっと楽に過ごせたかもしれません。
ところで、離婚はどうしていたのでしょう。
当時は、貞女は二夫にまみえず、なんて考え方はありません。
通い婚だから、男性が通わなくなったら離婚、という話は聞いたことがあります。でも、はっきりしてくれないと、女性はいつまでも男性を待つことになるんじゃないでしょうか。あるいは、左馬頭さんみたいに、喧嘩した勢いで「別れる!」といったものの、あとでフラフラ戻ってみたり。
一応、律令には離婚の条件が定められていて、里長や役所に届け出ることはあったようです。ということは、結婚の届け出というものもあったのでしょうか。おそらくこれは、複数の妻を持つことが許されない庶民向けでしょうね。
それにしても、「盗み癖がある」は分かりますが「多弁」てどういうことでしょうね。「子供がいない」とか「治りにくい病気にかかっている」という理由で離婚しようとしたら、現在なら鬼と言われるんじゃないでしょうか。
当時は行商に行ったり税を納めに行く道中で行方不明になる人もいて、一定期間夫が戻ってこない場合は、再婚が許されていたそうです。貴族も同じ理屈で、一定期間通わない場合は離婚成立だったのかもしれません。




