末摘花巻~光る君の訪問~
懐妊した藤壺宮は、七月に内裏へ戻りました。
北山の尼君と若紫ちゃんは、一旦京の邸に戻っていて、時折手紙のやり取りはあるけれど、まだお見舞いには行っていません。その子を引き取りたい、ということはその都度伝えています。
そんな中でも常陸宮の姫君への手紙は度々出していたようです。
・・・若紫ちゃんと藤壺宮様と常陸宮の姫君。こんなに同時並行できるものでしょうか。
つくづく、器用な人です。
『秋になって、あの夕顔の宿で聞いた砧の音も、耳障りであった唐臼の音さえ、恋しく思い出される。
常陸宮邸にはしばしばご連絡なさったが、やはりまったく返事はない。男女の情愛を解さないのがおもしろくなく、このまま終わってなるものかという御気持ちまでも加わって、命婦をお責めになる。
「どういうことなのだ。このようなことは、経験がない。」
と、たいそう不愉快にお思いなので、命婦はお気の毒に思って、
「分不相応だなどと、私が申し上げたわけではありません。ただ、ひどく内気な御方で、お返事ができずにいらっしゃるのだと存じます。」
と申し上げると、
「それが普通ではないというのだ。まだ分別がなく、自分で身を処することができない年齢であれば、もっともなことだが、何事も深くお考えになるだろうと思うからこそ文を送っているのだ。何となく心細い折に、同じようなお気持ちでお返事いただけたら、とても嬉しく思うだろう。色めいたことではなく、その荒れた簀子縁にたたずんで、お話ししたいだけなのに。ひどく不愉快な気分だから、姫君の御許しがなくても、お前がとりはからってくれ。苛々するような不快な振る舞いは、よもやあるまい。」
などとお話しになる。』
さて、『心苛られし、うたてあるもてなし(苛々するような不快な振る舞い)』をするのは誰でしょう。
大方の意見は、光る君です。その場合、
「自分が焦れて、姫君に失礼な振る舞いをすることは決してないから、会わせろ。」という意味になります。
この後の展開を知っている人からは、「嘘をつけ!」という言葉が聞こえてきそうです。
その一方で、大輔命婦だという意見もあります。その場合は、
「お前は、私を苛々させるような不快なことをしないだろうね。当然、会わせてくれるよな。」と圧力をかけていることになります。
どちらにしても、「簀子縁にたたずむだけでいいから」、つまり、縁側で御簾や格子越しに話すだけでいいから、引き合わせろ、と詰め寄っています。
命婦は常陸宮の姫君とは親しい関係にありますが(何と言っても、姫君は命婦の大家さんです)、惟光くん同様、光る君の乳きょうだいでもあります。光る君が望むことに対して、否、とは言いづらいのです。
光る君、すでに相当苛ついています。大抵の人は、一行程度の手紙で簡単になびくのに、こんなに相手にされないのは初めてなんでしょうね。
『物寂しい宵の、たわいない会話の中で、このような人がいると申し上げただけなのに、光る君がこのようにこだわり続けるので、命婦としてはなんとなく厄介なことで、
(女君には、男女の情に通じて趣き深く振舞うところもないのに、お引き合わせしては、かえってお気の毒なことにならないか。)
などと思ったが、君がこのように本気でおっしゃるのに、聞き入れないのも情趣を解さないというものだろう。
父親王(常陸宮)がご存命の時でさえ、古びた所だからと、訪れる人もなかったが、まして今は、わざわざ訪ねる人もない。このように世にもまれな人からの御手紙が届くようになったので、下っ端の女房たちなども相好を崩して、「お返事なさいませ」とお勧めするが、あきれるほど内気な性格で、まったくご覧にもならないのだった。
命婦は、
(それでは、しかるべき折に、物を隔ててお話しいただいて、お気に召さなければ、そのまま止めにすればよし。また、そうなるべき縁があって、お通いになるとしても、それをお咎めになる人もない。)
などと、色めいたお調子者だから、父君にも、このようなことなども言わずにいた。
八月二十余日、夜が更けるまで月が出ず、星の光だけがはっきりと見えて、松の梢を吹く風の音が心細いので、姫君は昔のことを語り出して泣いたりなどなさる。
とてもいい機会だと思ってご案内申し上げたのだろうか、光る君は、いつものようにお忍びでいらっしゃった。
月がだんだん出てきて、荒れた垣根のようすをご覧になっておられるところに、姫君が命婦に琴を勧められてかすかにかき鳴らされるのは、悪くはない。命婦は、すこし今風の感じを加えたいものだけれど、ともどかしく思っている。
人目のない所なので、光る君はかんたんに邸内にお入りになり、命婦をお呼びになる。命婦は、さも驚いたような顔で、
「とても困ったことですよ。いつもお小言を申されるのを、私の一存ではどうにもなりません、とお断りしてばかりおりますので、『私自身で姫君に物の道理を教え聞かせよう』とずっとおっしゃっていたのです。どうお返事いたしましょうか。並大抵の方の、気軽なお訪ねではございませんので、まったく会わないのはお気の毒ですから、物越しに、お話をお聞きくださいませ。」
と言えば、姫君はとても恥ずかしがって、「人にどうものを申し上げるのかもわからないのに」といざりながら奥へ引きこもろうとなさる様子は、たいそう子供っぽい。
命婦は笑って、
「ほんとうに子供のようでいらっしゃるのが心配です。高貴な方も、親御さまがご存命であれば、子供っぽいのも道理ですが、これほど心細いありさまで、なお世間から引きこもろうとするのは、よろしくありませんよ。」
とお教えする。
姫君は、人の言うことは強く拒めない御気性なので、
「返事を申し上げず、ただ聞けというなら、格子などを閉ざしてうかがいましょう。」
とおっしゃる。
「簀子縁では不都合でございますよ。あの方は、無理に軽はずみなことなど、まさかなさいますまい。」
など、うまいぐあいに言い繕って、二間との境にある襖を、みずからしっかりと鍵をかけて、茵(座布団)を置いて、お席を整える。』
ここ、ちょっと分かりづらいですよね。
寝殿造りのところで、廂とか簀子縁について書きましたが、簀子は今日の縁側にあたり、部屋の外のスペースになります。室内スペースの廂と簀子の間は格子(板戸)で区切られます。
姫君は当初、光る君を縁側に通して格子を閉めて、何か話しているのを部屋の中から聞くだけなら、というつもりだったのですが、相手が相手だからそれは失礼でしょう、と命婦に諭されるのです。臣籍に降ったと言っても、今をときめく皇子様ですから。
おそらく廂の間の一部が部屋のように区切られていて、姫君のいる場所との間に『障子(襖)』が造りつけられているのです。柱と柱の間が一間で、二間分の大きな襖です。当時はまだ引き戸ではなく開き戸で、取っ手のところに鎖を巻き付けることで施錠していたのではないかと思います。『鎖す』という言い方をするのはそのためかと。
こうして光る君は、室内に招き入れられることになったのでした。
『姫君はまったく気がすすまないが、このようなときの応対の心得なども、まったくご存知なかったので、命婦がこう言うのを、そういうものなのだろうと思っていらっしゃる。
乳母のような老人などは、部屋で横になっている時間である。
若い女房がニ三人いるのは、世間で評判の光る君のご様子を、拝見したいと思っているからで、皆、改まった気持ちでいる。姫君を悪くはない御衣にお召し替えさせて、身なりをつくろい申し上げるが、ご本人は、何もとりつくろうお気持ちがない。
男君が、この上なく立派なお姿を、人目にたたぬよう気をつけていらっしゃるご様子は、たいそう艶っぽいので、
「情を解する人にこそお見せしたいものだ。見栄えもしないこんな所では、たいそうお気の毒だこと。」
と、命婦は思うけれど、姫君がただおっとりしていらっしゃるので、
(大丈夫。姫君は出過ぎた様子などお見せにならないだろう。)
と思った。ずっと催促されてきたのでこの場を用意したのだが、新たな物思いの種にならないかと不安である。
君は、姫君のご身分からすれば、派手好きで今風に気取っている女より、この上なく奥ゆかしい女性を想像なさっていたので、姫君がしきりに女房たちにすすめられて、座ったままこちらに近寄ってこられる様子がおっとりしていて、衣にたきしめた香がたいそう趣深く薫るので、やはりそうだとお思いになる。
長年姫君を思い続けてきたことなど、たいそう熱心にお話しし続けるが、お答えはまったく無い。なんとも耐え難いことだと、ため息をつかれる。
「だめならだめとおっしゃってください。」
とおっしゃると、女君の乳母子で、侍従というせっかちな若女房が、じれったくなって、近づいてお返事申し上げる。少女のような、あまり重々しくない声で、御本人であるかのようにつくろって申し上げると、ご身分のわりには馴れ馴れしいと、光る君はお思いになる。様々なことを、情緒的にも、まじめなふうにもおっしゃるが、何の甲斐もない。
このように変わった態度なのは、他に意中の男でもいらっしゃるのだろうかと、いまいましいので、そっと襖を押し開けてお入りになった。
命婦は、「まあひどい、油断させなさって。」と、姫君が気の毒で、知らぬ顔で自分の部屋に引き上げてしまった。』
命婦さん?!なんか見捨てたみたいになってますけど?
行かないで!助けてあげて!姫君は今頃パニックですよ!
あと、しっかり施錠したはずの戸がなぜ開くの?!
『若い女房たちは、光る君の類まれな評判の高さに、お咎めもせず嘆くこともなく、ただ思いもよらず突然のことで、姫君には、なんの御心構えもないことを心配した。
ご本人は、ただ自分が自分でないようで、恥ずかしいより他のことは無く、光る君は、
(今はこのようであるのが可愛いのだ。まだ世間慣れせず、大切に可愛がられていた人だから。)
と、大目に見ながらも納得がいかず、なんとなく困ったと思われる。こういう姫君の態度のどこに、心惹かれるのだろうかと、深いため息をついて、まだ夜が深いうちにご出発された。
命婦は、眠れずに横になっていたが、知らない顔をしていようと、「御送りに」と女房たちに合図もしない。
君も、そっとお帰りになられた。』
『心苛られし、うたてあるもてなし(苛々するような不快な振る舞い)』
・・・してしまいましたね、光る君。奥手すぎる姫君が無言を貫き通すからって、押し入ることはないんじゃないでしょうか?
命婦さん、知らん顔しないでください。光る君に文句の一つも言ってやって。
この姫君と光る君。こういうことになったのは、姫君の行く末を心配した周囲の女房達が、光る君を引き寄せたからだと思っていたのですが、違いました。
左馬頭さんが、「荒れた邸に思いの外かわいい人が・・・」と話していたのが心に残っていて、光る君が勝手に妄想して、中将くんがライバル心むき出しにしてくるのに煽られて暴走したんですね。
大輔命婦は、姫君がどんな人か本当は知っていたので、光る君に縁付けたいわけではなく、適当なところで諦めてくれないかなあ、と思っていたのです。あんまりしつこく催促されるものだから、最後には「なるようになるでしょ!」と考えたようですが、甘かったですね。
まあ、なるようにはなりましたけれども。




