若紫巻~二条院へ~
『故按察使大納言邸には、ちょうどその日、父宮がおいでになった。この数年よりもさらに荒れており、広く古びた所で、人気も少なく寂しい様子を見渡して、
「どうしてこのような所で、ほんの少しの間でも幼い人が過ごせようか。やはりあちらの邸へ移そう。」
などとおっしゃる。姫君を近くに呼び寄せなさると、あの光る君の移り香が、たいそう艷やかに深く染み込んでいる。
「よい匂いだな。衣服はすっかりくたびれてしまっているが。」
とかわいそうにお思いになる。
「長年、病がちなお年寄りのそばにいたからな。あちらに移るようお勧めしたのに妙に嫌がられて。妻(正妻)も気にしているようだ。(祖母をなくした直後の)このような時に移すのも気の毒だが。」
乳母は、「もうしばらくこの邸にいらっしゃる方が良いと存じます。」と申し上げる。
「夜も昼も、祖母君を恋しがっていらして、ちょっとしたものも召し上がりません。」
本当に、ずいぶんと痩せてしまったが、かえって上品で美しくお見えになる。宮は、「私がついているのだから。」などとお慰めするが、日が暮れるのでお帰りになるときには、姫君はたいそう心細いと思ってお泣きになる。宮は涙を浮かべて、
「そのようにひどく思いつめるでない。今日明日にもあちらの邸に移そう。」
など、繰り返し宥めて、お帰りになった。その後の寂しさは慰めようもなく、ずっと泣いていらした。先のことまではお考えになれないが、ずっとお側にいらした尼君が亡くなってしまわれたことがひしひしと感じられて悲しく、幼いながらも胸がつまり、いつものように遊ぶこともなさらない。昼はまだ気が紛らわされるが、夕暮れとなればひどくふさぎこんでしまわれるので、どうしたものかと慰めようもなく、乳母たちも一緒に泣きあった。』
亡くなった直後より、しばらく経ってから寂しさは感じるものです。若紫ちゃんも、今が一番悲しいときですね。
それにしても、光る君の移り香・・・ずっと添い寝してましたからね。
周りの女房達はヒヤリとしたでしょうが、兵部卿宮はさらりと流してしまいました。まあ、自分以外の男性が十歳やそこらの子に近づこうとするなんて、夢にも思わないでしょうから、無理ないですが。
ちなみに、兵部卿は軍事防衛をつかさどる兵部省の長官です。親王はそもそも名前だけで実務は担当しませんが、この時代、兵部省自体が有名無実化している気がします。
『光る君からは、惟光を遣わされた。
「私が参るべきだが、宮中からお召しがあったので・・・。」と、宿直人として遣わされる。
「あんまりではございませんか。戯れ事にしても、物事の始めにこのようなことでは。父宮がお聞きになられたら、お仕えしている者の落ち度としてお叱りになられるでしょう。決して、もののはずみで、うっかり口になさいませんように。」
などと言っても、光る君がそれを何ともお思いにならないのは、困ったことですよ。』
え~と・・・乳母殿が怒っているんですが、無理やり泊っていったことではないらしい。
光る君は一応求婚者なので、「本気なら三日連続で通うという決まりごとがあるのに、一日来ただけで代理の者を寄こすとはひどい。」ということらしい。
そこ?
乳母殿、怒るの、そこ?
「まだ子供なんだから結婚は無理だと言ってるでしょ!」とか「殿方が泊まったことが知られて変な噂がたったらどうしてくれるの!」とかじゃないの?
この感覚が良く分かりません。
『少納言の乳母は、惟光にお気の毒な身の上話をして、
「月日を経た後には、前世からのご縁で、そのようなことにもなるかもしれません。ただ、今はまったくふさわしくないことと拝見します。君が、不思議にご執心なさるのも、どのような御気持ちからかと、判断がつかず迷っております。」
などと言いながら、何か特別な事があったと思われないだろうか、などと心配する。惟光も、どういうことなのだろうかと、理解できないことに思う。
惟光が帰参して報告申し上げると、光る君はしみじみと思いを馳せていらっしゃるが、そうはいっても、あちらの邸にお通いになるのも筋違いな気がして、誰かに知られたら「軽率だ、まともではない」と思われて、きまりが悪いので、いっそ(二条院に若紫を)迎えようとお思いになる。』
夜な夜な他所の屋敷に通うということは、彼女とデートとか夫婦の時間を過ごすということです。
童女のもとに通っていると知られたら、好奇の目で見られることは必至なので、さすがに光る君も躊躇しました。脇目もふらずに突っ走りますが、人目につかないように気を配ることはできているようです。
器用ですね。
『御文はたびたび差し上げなさり、日が暮れると、いつもの惟光を遣わされる。
「父宮から、明日お迎えにと、急に仰せがありましたので、慌てております。長年住み慣れた蓬生の宿を離れるのも、さすがに心細く、お仕えする者たちも心乱れておりまして・・・」
と、女房も言葉少なで、ろくに対応せず、縫い物をしたり準備をしている気配などがはっきりわかったので、帰参した。
君は左大臣邸にいらっしゃるが、いつものように女君(葵の上)は、すぐには対面なさらない。なんとなくおもしろくないと思われて、東琴を掻き鳴らして、たいそう艶やかな声で歌を口ずさんでおられる。
惟光が参上したので、召し寄せて状況をお尋ねになる。惟光がご報告申し上げると、
「あの宮のもとに移ってしまえば、わざわざ迎えに行こうにも、好色めいたことに思われるだろう。幼い人を盗み出したと、非難をあびるだろう。」
と歯がゆく思われて、その前に、しばらく人にも口止めして、二条院に移してしまおうとお思いになる。
「明け方、あちらに参ろう。車の支度はそのままに、随身一人二人に供せよと申し付けよ。」
惟光が退くと、君は、
「どうしたものか。噂が立って、好色じみた騒ぎになるに違いない。姫が分別のある年齢でさえあれば、女が心を通わせてのことと推測されるであろうし、そういう事は世間に普通にあることだが・・・。父宮が居場所を尋ね当てられたら、みっともなく、きまりの悪いことになるだろうし。」
と、思い乱れなさるが、そうはいってもこの機会を逃せば、とても後悔するに違いないので、まだ夜が深いうちからご出発になる。』
ちょっと待って。聞き捨てならない。
それなりの年齢ならそういうことは普通にある?
いや、若紫ちゃんを拉致するのも突っ込みポイントなんですが、そういうことが『世の常なり』の衝撃のほうが強いです。
年頃なら親元から娘を連れてきてしまうことって、よくあったんですか??それって、かなり問題では?
『門を叩かせなさると、事情を知らない者が開けたので、御車をそっと引き入れさせて、惟光が妻戸を叩いて合図の咳払いをすると、少納言の乳母が出てきた。どこかへ行ったついでだろうと思って、
「幼い人はお休みになっておられますよ。どうして、こんなに夜が深いうちにおいでになられたのですか?」
と言う。
「父宮のもとへお移りになるということなので、その前に、一言申しあげようと思う。」
そうおっしゃって、君が奥へお入りになろうとするので、とても困って、
「気を抜いて見苦しい格好の年寄りたちがおりますので。」
と申し上げかけるが、
「まだお目覚めではありませんね。どれ、私が目を覚まして差し上げましょう。このような朝霧を知らずに寝ていてよいものですか。」
と奥にお入りになるので、お止めすることもできない。
姫君は無心にお休みになっているのを、光る君が抱いてお起こしになるので、目が覚めて、父宮が御迎えにいらしたと、寝ぼけてそう思われている。
御髪をなでつけなさって、
「さあ、いらっしゃい。父宮の御使で参りましたよ。」
とおっしゃると、父宮ではなかった、と驚いて怖がっている。
抱いてお出でになると、惟光や少納言などが、「これはどうしたことですか」と申す。
「ここには常に参れないのが気がかりなので、安心できる所にお移しようと申し上げたのに、残念なことに別の所へお移りになるなら、さらにお話しにくくなるだろうから。誰か一人参れ。」
とおっしゃると、少納言はじめ女房たちは気が動転して、
「今日はまことに都合が悪うございます。父宮がいらっしゃったら、どのように申し開きいたしましょう。年月が経って、自然とそのような関係になられるのであればともかく、まだ分別もないお年でいらっしゃいますので、お仕えしている者たちも困ったことになるでしょう。」
と申し上げると、
「まあよい。後からでも誰か参るがよい。」
と言って御車をお寄せになるので、驚き呆れて、どうしたものかと心配しあっている。姫君も、不安に思ってお泣きになる。少納言は、引き留めようがないので、昨夜縫ったお召し物数枚を抱えて、自身も見苦しくない衣に着替えて車に乗った。』
少納言の乳母殿はともかく、惟光くんさえ驚いています。連れ去ってしまおうという光る君の心づもりまでは、知らなかったんですね。てっきり承知の上だと思ってました。
そして、誰一人光る君を止められないんですね。身分の差でしょうか。これでは、いくら仕える人がいても、いざという時に主を守れないではないですか。この頃は、体を張って主を守ろうとか、諫言しようとかいう発想はなかったのかも。
現在なられっきとした誘拐なんですけどね。
ちなみに、某国では現在でも誘拐婚というものが存在するようです。それも2割以上を占めているとか。
元々は駆け落ちだったそうなんですが、現在では女性の合意なしの一方的な誘拐もありで、1回会っただけとか面識がないということもあったり、本人は不同意だけど親が同意しちゃったとかもあるそうです。
本人が死亡するような事態になってようやく事件として扱われる・・・って、二十一世紀にもなってどうかと思いますが、地域によってはまだこんなことがあるんですよね。
酷い話です。




