夕顔巻~茫然自失の光る君~
『ようやく惟光が来た。いつもは夜中も明け方もなく従っているのに、今夜に限って側に控えておらず、呼び出しにさえすぐに応じなかったのを、憎らしいとは思うものの、もうどうしようもないことである。
大夫(惟光)に気づいた右近が、初めからのことを思い出して泣くので、光る君も堪えきれなくなった。自分一人が気丈にふるまって女君を抱きかかえていたのだが、惟光が来たのでほっとして、悲しい気持ちがこみあげてきて、しばらくの間、とめどもなく泣くのだった。
やがて落ち着いてくると、
「とても奇異な事があったのだ。このような緊急のときには、読経などをしてもらうものだから、お前の兄の阿闍梨に来るよう言づけたのだが、どうしたのだ。」
と言った。
「昨日、山に帰ってしまいました。ともかく、滅多にない事でございますね。」
光る君が泣く様子は、たいそう優美でいたわしく、拝見している人もひどく悲しくなって、おいおいと泣いた。
ただ、年を重ねて世の中の様々な経験を積んだ人こそ、有事の折には頼もしいものであるが、誰も彼も若い人たちで、どうしたら良いのかわからない。それでも、話が広まらないよう、管理人にもこの変事を知らせることなく、ここを出るようにと進言する。
「元の住まいは、女房などが泣いてうろたえるでしょうし、隣人が多いので、自然と話が漏れるでしょう。山寺なら、このような事もありがちで、目立たないかと。」
と、惟光はあれこれ考えて、
「惟光の父の乳母でありました者が、尼になって東山の辺りに住んでおります。そちらにお移し申し上げましょう。その辺りは、人は多いようでございますが、とても閑静なところです。」
と申し上げて、夜がすっかり明ける頃、人々の動きにまぎれて、御車を寝殿につけた。
上蓆に遺骸を押し包んで、惟光が車に乗せる。とても小柄で、可愛らしい感じのままである。しっかりと包むこともできず、髪がこぼれ出ているのを見ると、光る君は悲しみで目の前が真っ暗になるようで、最期まで見届けたいと思うが、惟光が、
「早く御馬で二条院においでください。騒がしくならないうちに。」
と言って、遺骸の横に右近を乗せ、馬を光る君にお譲りし、自分は徒歩で行くので袴のくくりを引き上げる。なんとも奇妙な野辺の送りであるが、光る君の悲しみが深いのを拝見すると、惟光もわが身のことは顧みずに歩いていく。
光る君は何も考えられず、茫然自失の状態で二条院に帰り着いた。』
惟光くん、頑張ってます。
光る君の乳兄弟だから、やっぱり十七歳くらいのはずなんですよね。
お忍びデートで相手が死んでしまって、というのは、やっぱり外聞が悪い事のようです。なんとか穏便に処理しようと頭を働かせます。
肝心な時に傍にいなかったと文句言われてますが、まあ、こういうときに限って・・・ということ、ありますよね。携帯があっても、肝心なときにつながらないこともあるんですから。
そして光る君、なかなかショックから立ち直れません。
『女房たちは、
「どちらからお帰りになられたのですか。ご気分が悪そうでいらっしゃいます。」
など言うが、光る君は御帳台の内に入り、ひどい悲しみに胸を押さえて、
「どうして一緒に乗って行かなかったのだろう。もし生き返ったら、どのような気持ちがするだろう。自分を見捨てて行ってしまったと、辛く思うのではないか。」
と動揺する中にも考えると、息が詰まってむせかえる心地がする。
頭が痛くて、身体も熱っぽい感じがして、ひどく苦しくて、こうして自分もあっけなく死んでしまうのかもしれない、と思う。
日が高くなっても起き上がらないので、女房たちは心配して、御食事などをおすすめするが、気分が悪くて食べられない。とても心細く思っていたところに、帝からの御使者が来た。昨日は居所がわからなかったので、帝はご心配されている、とのことだった。
左大臣家の公達が訪ねてきたが、頭中将だけを招き入れ、御簾の内にいるままで、話をする。
「乳母が、この五月の頃から重い病を患っていて、出家した効果か、一度は癒えたのだが、最近また病が悪化して弱ってしまった。もう一度見舞ってほしいと申したので出かけたところ、その家の下人が、急な病で、暇を取る間もなく亡くなった。私を憚り遠慮して、日が暮れてから遺体を運び出したと耳にしたのだが、宮中で神事が多い時期に良くないことだ。慎まなければならず、参内するわけにはいかない。今朝方から、風邪なのか、頭がひどく痛くて苦しいので、大変失礼な形で申し上げる次第だ。」
中将は、
「それならば、その旨を帝に奏上しましょう。昨夜も、管弦のお遊びの際に、ずいぶんとお探しになられて、ご機嫌がお悪うございました。」
と申し上げてから、引き返してきて、
「どのような行きがかりで穢れに出遭われたのですか。ご説明なさったことは、本当とも思えません。」
と言うので、光る君はどきりとして、
「ただ思いがけない穢れに触れたことを奏上してください。まったく、不都合なことだ。」
と素知らぬふうに言うが、心の中は言いようもなく悲しくて、気分もすぐれないので、誰とも顔を合わせなかった。』
人の死という穢れに触れた光る君は、三十日間の物忌みをしなければいけません。その間、宮中に参内できないのは本当なのですが、ちょっと苦しい言い訳です。
光る君が持ち帰ったので、二条院も穢れてしまっているはずで、そこに来た使者や左大臣家の子息たちも穢れが移ってしまうと思うのですが、宮中は大丈夫でしょうか?
もしかして、座らなければそこを訪れたことにはならない、とかいう抜け道でもあるんでしょうか。
『日が暮れて惟光が二条院に来た。
穢れがあると伝えているので、訪れる人々も皆立ったまま退出するため、人気は少ない。
惟光を呼び寄せて、
「どうであったか。亡くなってしまったか。」
と言いながらも、袖を顔に押し当てて泣く。惟光も泣きながら、
「ご臨終のようでございます。長々と寺に籠もっておりますのも不都合ですし、明日は日がよろしゅうございます。知り合いにたいへん尊い老僧がおりまして、必要なことはお願い申し上げました。」
と申し上げる。
「付き添っていた女(右近)はどうしたか。」
「その者もまた、生きてはいられないという様子でございます。自分も死に遅れまいと取り乱しておりまして、今朝は谷に身を投げてしまったかと思いました。『もとの住まいの人に知らせましょう』と申しますが、『少し落ち着きなさい、状況をよく考えて』と、宥めておきました。」
と語るので、酷いことになったと思われて、
「私もひどく気分が悪くて、どうなってしまうのだろうと思う。」
と言う。
「この上何を思い悩むのですか。全て、そのようになる定めだったのでしょう。誰にも漏らさぬよう、惟光が身を賭して、万事とりはからいます。」
「その通りだ。そう思うようにしてはいるが、浮ついた心の気まぐれで人を死なせたかのような評判を負うかと思うと、とても辛いのだ。少将命婦(惟光の姉妹??)などにも知らせるな。まして尼君(惟光の母)は、このようなことをお叱りになるだろうから、恥ずかしくていたたまれない思いをするであろう。」
と、口止めをする。
かすかに話を聞いている女房などは、
「変ですね、何ごとでしょう。穢れに触れたとおっしゃって参内もなさらず、その上このようにひそひそと話して嘆いていらっしゃる。」
と、なんとなく不審に思う。
「不都合と思うだろうが、もう一度あの亡骸を見ないと心残りになるだろうから、馬に乗って行こう。」
惟光は、とんでもないことだとは思うが、
「そのように思われるなら仕方がありません。早くお出かけになって、夜が更ける前にお帰りください。」
と申し上げる。耐えがたいほどに暗い気持ちで、忍び歩き用の狩衣に着替え、いつものように大夫(惟光)と従者を連れて出かけた。危うかった出来事の後なので、悩みはしたが、やり場のない悲しみに、いま亡骸を見ずに、来世で再び会うことができるだろうかと思い、出かけることにした。』




