源氏物語の世界⑦寝殿造
平安時代の建築様式と言えば寝殿造り。
ここまでは習うのですが、それがどんなものかまでは教えてくれず、モヤモヤした覚えはあるでしょうか。
それでも何となく流布しているイメージとしては、真ん中の建物の両脇に、対になる縦長の建物があり、大きな庭に大きな池があって舟遊びをしていたっぽい、というものでした。
が、それは江戸時代の人間の想像である、と書いてあるところが・・・
え?そうなの?
時代によって変化し、経済力によっても違う、と。
まあ、それは確かに。
とりあえず、紫式部の生きた平安中期はこんな感じかな、というところを見ていきたいと思います。
屋敷の中心には寝殿があります。ここは、屋敷の主人夫妻の居住スペースであり、客人をもてなす場でもありました。長方形で東西に長く、南面は客を迎えたり何かの行事を行う場で、北面は生活空間でした。
建物は全て白木で、屋根は檜皮葺です。
基本的な作りとしては、まず、母屋と呼ばれる広い空間があります。母屋の中には柱も壁もなく、母屋をぐるりと囲むように柱が並びます。その周囲に、広い回廊のようなスペースがあり、庇もしくは廂と呼ばれます。この庇も、柱がぐるりと囲んでます。
靫負命婦が桐壺の更衣の実家を弔問に訪れた時は、南面の廂に通されてましたね。
母屋+庇が室内スペースで、庇の外側は蔀で囲い、一部は妻戸(観音開きの扉)になっていました。
蔀は取り外し可能な壁とか板戸と考えるといいかもしれません。昼間はこれを取って解放し、夜は嵌めこんで閉鎖する、ということが出来ました。上下に分かれていると、半蔀と言いました。格子状の桟になっていると格式が高いそうで、この場合は格子とも呼びました。現在のお寺に残っているものには障子紙が張られているようですが、この頃はないので板を張っています。半蔀の上部は上にあげて、屋根からつり下がった金物に引っ掛けておくと、風と光が通ります。
この辺の様子は、大河ドラマの『鎌倉殿の~』でも見ることが出来ました。2024年は紫式部だそうなので、建物や生活の様子も見られるかもしれません。
柱の間には御簾を下げたり、建具をつけて仕切りとすることもありました。
原文に『障子』という言葉が出てきますが、現代人が思い浮かべる障子はまだありません。屏風とか几帳とか襖のようなものとか、室内スペースの間仕切りになる建具をひっくるめて『障子』といいました。ほとんどの場合は、襖のようなものを指していたようですが。襖と言っても、現代のものより重かったようです。建具は全て取り外し可能なので、自由にアレンジしていたようです。
光る君が元服したのは、清涼殿の東の廂の間でした。東側の廂を何かで区切って、部屋のような設えにしていたのかもしれません。
そして、室内スペースの外周に縁側があります。簀子縁と言いますが、簀子と略されることもありました。上級貴族の家では、簀子縁もそれなりに広く、欄干がついていました。屋根もついているので、風がなければ雨が降っても濡れずに移動できたでしょう。
同じような建物が、寝殿の東西にあると、東対とか西対とか呼ばれますが、これらは必ずあったわけではありません。摂関家の邸宅だった東三条殿というところでも、西対はなかったようです。規模の大きな邸宅は、建物同士が渡殿(渡り廊下)でつながっていました。さらに、従者の控室などに使う為の、幅広い廊下があったりしました。
寝殿の南側は庭になっていましたが、上級貴族の家でも広い池があった屋敷は少数派だそうです。庭は元々、格下の人間が邸の主に拝礼をする儀式の場で、それなりの広さを確保しておく必要がありました。好みもあるでしょうが、池や草木だけに使うわけにはいかなかったんです。
家の格を示すのに、最も重要なのが中門廊というものでした。主一家の居住スペースと、仕える人々のスペースの境になるもので、上級貴族の家には必須でした。廊下と言っても部屋一つ分の幅があり、そこで宴会を開くことも出来たようです。中門を通って中門廊に入れる人にも決まりがあって、身分の低い人は中に入れませんでした。
屋敷から外に出る門は、また別にあります。
さて、文字だけでイメージするのは難しいものですが、物語中に、建物や部屋の描写が何度となく出てくるので、そのうち何となく想像できるようになると思います。




