後書き・解説(ひふみ神示は相対性理論!?)
第十七巻 二日んの巻(ジシンの巻)は、ひふみ神示の肝とも言える巻です。
是非何度もお読みになられて、ひふみ神示の数多の叡智を存分にご堪能ください。
※十三~十七巻の巻名は五柱の神様から採られています(雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神)
ジシンの巻は私が特に好きな巻の一つで、霊界と物質界の関係や神・霊人・地上人、生前・生後・死後等について事細かに述べています。
そして、アインシュタイン博士の相対性理論が”数式”のものならば、『ひふみ神示』は”言葉”の相対性理論です。
相対性に関する叡智が、特にこの巻に凝縮されている様に思います。
その他にも数多の叡智が詳しく説かれており、私は何度もこの巻を読み返しています。
相対性に関する神示の一節としては、
「一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない。神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない」
「浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。更に善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と云う。歓喜は神であり、神は歓喜である」
「愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。地上人は常に霊界により弥栄する」
「個の弥栄は、全体の弥栄である。個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである」
「愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである。悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである」
「天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である」
「その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする」
「親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない」
これは判り易い例で、子供が生まれることにより男女2人は親になります。
「千変万化なるが故に、一である。一なるが故に、永遠である」
私も、上の一節と同じような文言を作りました。
「完全な満月の状態の月を真裏から見れば、完全な新月である」
完全な満月(表)もそれだけでは平面(表から見た側面)、真裏から見た完全な新月もそれのみでは平面(裏から見た側面)、満月に見えるその裏側は新月であると理解する事が、事象を(その側面だけではなく)立体的に捉えるという事なのだと思います。
「そなたが神つかめば、神はそなたを抱くぞ。神に抱かれたそなたは、平面から立体のそなたになるぞ。そなたが有限から無限になるぞ。神人となるのぢゃ。」
本節の「神」は、人の中心の中心、奥の奥に宿る神様の事だと思います。
これ迄は人という側面(最外)だけでしたが、その最内に神様が宿っていることを認識・理解すれば立体の貴方になるのだと思います。
※月の場合は表と裏でしたが、この場合は外と内になります
「立体から複立体、複々立体、立々体と進まねばならん。一から二に、二から三にと、次々に進めねばならん。進めば進む程、始めに帰るぞ。に到るぞ。立体に入るとは誠の理解生活に入ることぞ。無限に解け入ることぞ」
本節の「始めに帰るぞ」の始めは、大神様を指しているのだと思います。
それは以下の一節からも伺えます。
「大歓喜にまします太神のは、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。それは、立体を遥かに越えた超立体、無限立体的無の存在なるが故である」
「一なるものは、平面的には分離し得ない。二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている」
「天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。本来なきものをつくり出し、一を二にわける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。地獄なきところに天国はない。天国を思念する処に地獄を生ずるのである。善を思念するが故に、悪を生み出すのである。一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。即ち、一は二にして、二は三である」
「すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。これによりて、新しく総てが生れ出る。太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである」
この一、二、三なるもの(笑)、それぞれの一節において意味が異なるようで、その解釈がとても難しくなるのですが上記の3つは意味が同じと捉えて良さそうです。
本来は一つであるものを二つに分ける。分かれた二つはそれぞれに成長・発展していきます。
おそらくその成長・発展の度合いが、一つの時よりも二つに分かれた時の方が良くなるのだと思います(→「分けることによって力を生み弥栄する」)。
そして、分かれた二つがまた結ばれた状態が三なのだと思います(→「三と栄ゆるが故に歓喜が生れる」「天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている」)
考えまするに、今のこの世界は二の分かれた状態(善・悪、真・偽、愛・憎、美・醜、天国・地獄、神・人 等々)にあるのだと思います。
これを、事象を立体的に捉える等の意識改革?により、三の結ばれた状態にする事が『ひふみ神示』の意図するものなのだと思います。
とても難しい事のようにも思えますが、実は今でも実現出来ているものがあります。それは人(男女)の営みです。
人(一)、男・女(二)、男女が結ばれて、子供が生まれる(三)
そして、生まれた子供達がまた一、二、三と進み、永遠に円環していきます。
また、これは「すべて一にして二、二にして三である」とも言えます。
このように、一、二、三と進み、永遠に円環していく事が神様の望まれるものだと思います。
また、三の状態に達してもそれは立体になっただけで、その先に複立体、複々立体、立々体……と未来は無限に開けています。
こうした、色々な事を教えてくれるのが『ひふみ神示』です。
私が本書を「叡智そのものにして、最高傑作の一つ」と感じるゆえんです。
最後に、今まで解説したものを統括したような一節を紹介して、本項を締めたいと思います。
「地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また、悪、偽に導かれる。この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。
その平衡が、神の御旨である。平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのである。
左手は右手によりて生き動き、栄える。左手なき右手はなく、右手なき左手はない。善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。
神は善、真、悪、偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。
始めなき始めより、終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである」
ありがとうございます。