水鏡の魚
良く分からない熱情を、良く分からない感じで書いてみました。
好きに書いているので話の筋が行方不明かもしれない…雰囲気で読んで雰囲気で流してください。
ちなみに、私も熱帯魚好きです。水も含めて育てないと上手くいかない所が。
沈黙とぬるさが支配する空間にはわずかな物しか置かれていなかったけれど、そこは確かに私にとっての楽園であった。自分の頭の重さを全て片腕に預けるように肘をつき、いつものように大切な水槽の中身を眺めると、自分自身の感覚全てを売ろうとも構わないほどに思考が溶けていく。
水槽の中の魚の種類も名も、私はついぞ知ることは無かった。なぜなら、私は昔からここにいるというわけではないからだ。気づいたらここにいた、という陳腐な表現が似合う事ではあったが事実だから仕方がない。それなのに、大切な水槽とは…だが、人間がなにかを大切に思うまでに期間はそれほど重要な事ではない。そこに対象があった、私はそれが良いと思った、そこにあるからこそ良いと思った。それ以外に何もない、違うだろうか。
時間の流れもさして気には留めていなかったから、ここにきてからどれくらい経つとか、そういったことも私は知らない。知らないからこそ、水槽は私の前で常に一つの世界であり続けた。色とりどりの石が敷かれた水底に這うように泳ぐ細長い体躯の魚、水草の揺らめき、偏光ガラスのような鱗を水流に溶かしては水草の中に行きつ戻りつを繰り返す熱帯魚、そのどれもが私を満たして離さなかった。水槽が置かれているのは小さな机で、私は傍らに画用紙と絵具を据えてその様を書き留める。水流は曲線、跳ねる魚は斑点、静かな水面は画用紙に溜まる色水で、形にならなくても私は唯一目の前に広がる世界を映しとる鏡を持っていたのと同じようにそれを扱った。来る日も来る日も、いや時間の感覚がない以上は日という数え方もおかしいのかもしれないが、画用紙を書き溜めてはとろとろと過ごした。
そんな風に息をしていたら、ある時自分のいる空洞に新しいものが増えていた。その日から、自分の持つ世界は二つになったのと同時に比較することを覚えてしまった。それは水槽に比べれば小さな瓶であったが、中身は格別に美しい輝きを持っていた。部屋にただ一つだけある窓から差し込む日光が斜めに差し込むと、中身のトパーズの鰭が複雑な光を帯びて目の前を漂う。水槽にいるどんな生物もかすむほどに清廉な空気を纏った魚は、瓶という小さな世界にありながら油断なく自分の領域を主張して全身を揺らめかせていた。私は只々っ目を奪われて、初めて目にしたその日から画用紙に映すものを変えた。だが、それが空間に居座る私の小さな不幸だった。捉えようのない色を放つ美しさを自分の心に従って映すと、いつの間にか色を使いすぎて画用紙が真っ黒に染まった。何度やっても上手くいかなかった。それは当然といえば当然の結果だったかもしれない。圧倒的な美しさの前で、私がそれを模倣しようとも、空間に閉じこもることを是とするようなちんけな人間の手ではそれに耐えきれるはずがない。ここにきて自らの醜さを憐れむことを知ってしまった。だが、瓶の中に居る魚よりもまだ私の方が幸運な存在だと一方では思っていた。この美しい生き物は、瓶の中に居る限り、私の手を離れることは出来ないという事実が醜い私にとっての優越である。美しいものを収めていれば、画用紙を彩って黒く染めようとも、私の手を離れることは決してない。物を描いて魚を愛でる私にとって、手が生むものは魚の美しさに耐えきれなくとも最も崇高な機関だった。醜さを突き付けられようとも、魚が美しく手元にある限りは、それと同等かもしくは勝るほど、魚を支配する私の手こそ美しく誇りであると自分に言い聞かせた。
そうして真っ黒な画用紙は積み重なって床を埋め尽くすほどになった。
はじめは実は真っ白な空間だったというのに、床を埋め尽くすだけでは飽き足らず壁一面に黒くなった画用紙を張り付けて今では四方見渡してすべてが黒い空間になった。それでもかまわなかった。初めの水槽の世界も、瓶の中のたった一匹だけの世界も、その方が良く映ったから。変わらず二つの世界を愛で、画用紙に映し、他人には分からない独占欲と優越感を叶えることが私の使命であったのではないかとすら思った。ここにきてから何も口にしていなければ睡眠すら無意味になったが、不思議と体は楽でむしろ呼吸しやすい心地だった。ずっとここにいれば、ここにいさえすれば、私はそれでいいのだろうと思う。
そう考えながら、ぼうっと見ていた水槽から目を離して瓶に注意を向けた。楽だった呼吸が一瞬にして引き攣った。喉がすべてを拒むようにせりあがって、事実を否定しようともがいたが、すっかり黒くなってしまった空間の中では他に注意の向けようがなかった。
あれほど美しかった瓶の魚は、トパーズの色味を失って力なく体をくの字に折り曲げて素面を仰いでいた。あれほど慈しんでいたのにどうして、と正常な判断を求める脳みその動きをかなぐり捨てて、私は瓶を力任せにゆすった。動かない。手元にあった美しさが潰える様をみて今度は自分の手を心の底から憎んだ。手中に収めたから、美しさは死んだ。自分が高尚でありたいからと利用したから、私が黒く染めてしまったから、やはり欲を出すべきではなかった。水槽の魚だけで満足しておけばよかった、比べなければよかった、幸せだとごまかすべきではなかった。だが、まだ人間というのは強欲だった。自分の手が美しいと思えていた時代を手放すことができなかった。美しいものには美しいものを与えれば、二つの美しさが溶け合って元のように帰れるかもしれない。ああ、隣の水槽は小さな世界であったけれども、私が唯一守りたかった美しさに比べればちっぽけなものだ。私はよろよろと立ち上がり、机の上の水槽を持ち上げて何の躊躇もなく床に叩きつけた。中身が瞬時にぶちまけられて、床の黒と一体になる。魚は生きる世界を失ってしばらく喘いだあとただの物になった。窓の隙間から差し込む光は、飛び散ったガラス一つ一つに反射して虚しく瞬いた。まぎれもない終わりの光。私はひと際尖ったガラスの破片を拾って、自らの手首に当てがった。ガラスの鋭さは薄く皮膚を破り、瓶の上から香りを放つようにふわりと赤味が落ちる。自分の美しさを捨てきれなかった贖罪に、いちばん大切な美しさを君にあげると初めて私は魚に語り掛けた。薄汚くあきらめずに自分の誇りを守った罪に、ためらわずに私は手を彼の魚になげうった。これで美しさが戻るのなら構わないし、戻らなければそれまでだ。失ったはずなのに、私は限りなく満足だった。
壁も床も薄汚く汚れた独房の中で、画家の死体が見つかった。小さな机の上で配給された画用紙と絵具を慈しみながらも、絵筆の逆側を尖らせたナイフを自身の右手に突き立てて、周りの風景よりもどす黒い液体の染みを画用紙いっぱいに広げて。