第1話 出立の日 (2) 深夜の独唱 ②
むーかーしーギリシアーのーイカレースーはー
あたまーがーイカれーてーとんでーえったー
潮騒。
黒く海上に聳える外宇宙探査艦プレジデント・オバマに打ち寄せる漣波。頑堅なオバマの装甲に鎧われ、船内に眠るハルカの耳にはもとより届こうはずもないが。
人間に安らぎをもたらす1/f揺らぎ。それを感じる本能か。はたまた。昼間に機体の中で聴いた、振れる波音の残響か。
「おしっこ。」
闇の中。ハルカは波音に目を覚ました。
なんだか妙な夢をみていたような、そんな気がする。ボンワリとした意識のまま、ハルカはふらふらとトイレへ向かう。
用を済ませ、ンーと寝惚けた眼のままに、鏡の前に手を洗う。頭の中は夢現。思い浮かぶのは昼の出来事。個性的なオバマの顔ぶれ。
イソジニール少佐の嫌味に始まり、なんだかつんけんとした態度のアキノ。ペンギンの機関長。黒ひよこ。やたらフレンドリーなタツミ。美人の「艦長」さんに、タコのお医者さん。挙げ句にゴリラ。ある意味夢よりも現実味のない過酷な環境に、ハルカはンーと頭を抱える。
医務室でタコの精密検査を受けたハルカは「特に異常なし」と判断されたものの、「艦長」の指示により一応の大事を取り、自室での休養を言い渡された。「(なんか、疲れた…。)」そう思い、横になるうちにいつしか微睡み、そして目覚めた深夜2時。洗面台の水音の中に、ハルカは不思議な違和感を感じた。
「?」
首を捻りつつハルカは蛇口を閉める。静まりかえる深夜の船内。高く細い声が聴こえる。
「(歌声…?)」
何故か妙に惹かれるものを感じ。操られるようにふらふらと、ハルカは声の源へと導かれていく。
重い防火扉を開け、無限に続くかに思える鉄階段を進む。幾度も折れ曲がるそれはさながら、遠い記憶を辿る螺旋の輪廻。やがてたどり着いた運命との邂逅への扉を、妄とした頭でハルカは拓く。
鉄扉を開けると、そこは既に船外。暗い夜の海に闇なお黒く聳える外宇宙探査艦プレジデント・オバマ。その屋上部分にハルカは立っていた。目前には、バベルの塔のように天に伸びたオバマの戦橋。見上げる空に輝く満月。静かに波打つ潮騒に、ハルカはしばし立ち尽くす。
むーかーしーギリシアーのーイカレースーはー
あたまーがーイカれーてーとんでーえったー
頭上に流れる歌声。海の闇、空の闇。唯ひとつ輝く満月から聴こえてくる歌に惹かれ、壁面の梯子に迷うことなくハルカは手を掛けた。
無機質な鋼鉄の壁面を、梯子に掴まったハルカがよじ登っていく。黒の塗料に塗り込められたその下には、歴戦のオバマの半生を物語るような多数の傷痕。その歴史を遡りながら部屋着の少女は夜空へと昇り、遥かな月へと近づいていく。
1列に並んだ強化ファイバーグラスの窓を過ぎ、戦橋の最上部にひょっこりとハルカが頭を出した。きょろきょろと首を左右に振り、ハルカは歌声の主を探す。
むーかーしーギリシアーのーイカレースーはー
あたまーがーイカれーてーとんでーえったー
目の前に浮かぶ巨大な満月。先ほど戦橋の下から見上げた時よりずっと近く、大きくなったそれを背景に。林立する感知器、その一段高く盛り上がった台座に腰掛け、体操服姿の少女…否。幼女、という方が正しい身なりの少女が歌っている。深夜である。ましてここは闇の海に浮かんだ小島が如き外宇宙探査プレジデント・オバマ、その巨体の更に上。戦橋の最上部である。ここは果たして、幼女の登ってこられる場所であろうか。彼女は果たして、まともな生を持つ人間なのであろうか。非現実的に過ぎるあまりに場違いな存在を前に、ハルカは梯子に掴まった姿勢のそのまま、それ以上登ってこれずにいる。
むーかーしーギリシアーのーイカレースーはー
あたまーがーイカれーてーとんでーえったー
体操服姿の少女…否。幼女は飽きることなく同じ歌、同じ歌節を繰り返す。愉しげに。紺のブルマーから伸びた白い脚をパタパタと振り、天宙を見上げるその姿。後ろに浮かぶ満月に腰掛けているかのような。妖しくも、神々しくも感じさせる神秘的な絵面。魅せられたように妄と見入るハルカは無意識の内に歩を進め、フと気づけば既に幼女の隣に立っていた。
「ね。このお歌の続き…知ってる?」
天宙の遥か向こうに目を向けたまま。幼女はハルカに声を掛ける。
「(えっと…。)」
少しの間、考え込むハルカ。妄と晴れない意識のままに、遠き幼い記憶を探る。
「たしか。太陽を掴もうとしたイカレスは、翼を焼かれて海に落ちて死んじゃった…。んじゃ、なかったかな…?」
独り言を呟くように。ハルカも幼女に目を向けず、天宙を見上げて答える。
「…ふぅん。」
幼女は少々意外そうに。つまらなそうな顔をしている。闇の夜空を見上げる二人。同じ角度の時間が過ぎる。
「ねぇ。」
幼女が再び、唐突に口を開く。視線を合わせない深夜の二人。隣に並んだ月夜の二人。
「イカレスはどうして、太陽を掴もうとしたの?本当に頭のイカレた、ただのイカレ野郎だったの?」
唐突に投げられる幼女の問い。再び、ハルカは「(ンー。)」と考え込む。
「わかんない…、けど、ね。なんか私、イカレスの気持ち、わかる気がするんだ。私ね、今日、ロボットに乗って、初めて空を飛んで。目を開けたらすぐ目の前に、雲と空がこう、ワーッ!と拡がってて。テレビとか、写真で観たのとなんていうか、全然違くて。…うまく言えないんだけど、そのまま海に落ちて死んじゃってもいいからどこまでも飛んで行きたい、太陽まで翔んでみたい。そう思っちゃったイカレスの気持ち、なんか。わかる気がするんだ。」
paiのモニター越しに観た天宙の光景。眼下に拡がる雲海、突き抜ける蒼空。ハルカは想いを馳せるよう、素直な言葉の1つ1つを、見知らぬ幼女に告げていく。
「それで本当に墜落してたら世話ねーけどな。」
ケッ、と嘲笑うような幼女の言葉。先ほどとはうって変わった、なんとなく聞き覚えのある幼女の口調に。ハルカは「え?」と視線を向ける。
びゅう、と夜の海風が吹く。季節は夏の終わり。昼は未だ、夏の暑さの残る日々ではあるが。日が落ちれば気温も下がり、ましてここは遮るものもないオバマの屋上、その、更に頂上である戦橋の上。浜風はそれなりに身体に冷たく、ハルカはブルっと身を震わせる。
「(あ、あれ…!?)」
それが合図であったかのように。ハルカの意識は急速に覚醒し、妄としていた頭が一気に冴え始める。ココはどこ!?で、自分はハルカ。国際太陽系外宇宙開発機構、通称OMNKOに就職し、本日が勤務1日目。そう、今はナウで、今日はトゥデイなわけであるが。なぜ深夜、「おしっこ」に起きたはずの自分が知らない所にいて、知らない女の子と並んでいるのか。ハルカの記憶はその部分が曖昧で、状況の把握に混乱が生じている。
「(え、えっと…。)」
ハルカは困ったように幼女の横顔を眺める。
「つばさ。」
ニッコリと微笑み、初めてハルカと向き合う幼女。なるほど、体操服のその胸には、大きく「つばさ」と書かれたゼッケンが縫い付けられている。
とてもこの場にそぐわない、体操服にブルマー姿の幼女。桃色の髪をツインテールに縛り上げ、必要以上に典型的なロリロリしい姿を前に、ハルカの頭を「犯罪」というワードがよぎる。同時に何故かイソジニール少佐の顔を思い浮かべたのはさすがに失礼が過ぎるというものではあるが。
この状況。さて、どうしたものか。むしろ、どぅしたものか。むー、と思案に暮れるハルカはフと、目の前の幼女が泣きそうな顔で自分を見詰めていることに気が付く。
「え、と…、ツバサ…ちゃん?」
困惑しつつ名前を呼ぶハルカに。
「おねぇちゃあん…。」
潤んだ目のツバサが、今にもしがみつかんばかりに近づいてくる。
「こわくておりられない…。」
涙声のツバサの言葉。ハルカは改めて辺りを見回し、そのあまりの高さにギョッとする。妄とした意識のまま、半ば無意識に登ってきたハルカは今まで気付いていなかったが。外宇宙探査艦プレジデント・オバマ、その戦橋の高さは約40m。25mのプールを縦に立てたよりも高さがある。16歳のハルカにとっても、外壁におざなりに取り付けられた粗末な鉄梯子を降りていくのは想像しただけで脚のすくむ思いである。
どうしたものか。むしろ、どぅしたものか。ハルカは「(携帯…!連絡…!)」と衣服を探るが。薄いTシャツにショートパンツ、挙げ句にノーブラの今の自分の身体から、携帯の出てくるはずもない。第一。ハルカはこのオバマ乗員、誰ひとりとして連絡先を知らない。
どうやらこのツバサを担いで、自力で部屋まで戻らなくてはいけないらしい状況。ハルカは愕然とするが、目の前でフルフル震えている必要以上にロリロリしいツバサにはとても、頼りようはずもない。意を決したハルカはツバサに向かって背中を差し出す。
「大丈夫だから。しっかり掴まってて!怖くても絶対離しちゃダメだよ?大丈夫だから…!」
ハルカは半ば、自分に言い聞かせるように呟く。その背中に、ツバサの重みが加わった。
「ひゃあっ!?」
突然、ぎゅうと胸を揉まれ、ハルカがのけぞり叫びを上げる。
「!?…!?」
予想外のツバサの行動に慌てるハルカの反応を他所に。ハルカの肩にしっかりと掴まったツバサは、ハルカに見えない角度でニヤーと悪い笑みを浮かべているのであった。