SECT.6 国境を越えて
大きな音で心臓が鳴り響いている。
見つかってはいけない。
だって、おれもアレイさんも、セフィロト国から追われる大罪人なのだから。
疼く左胸を右手でぐっと抑え込み、唇をかみしめて顔をあげた。
逃げなくちゃ。
まとったマントの裾を握って、人だかりにくるりと背を向けた。
「いいのか? ケテル様に会えるなんて、一生に一度あるかないかだぞ?」
後ろからおじさんが声をかけてきたけれど、一生に一度どころか会いたくもない2度目・3度目を重ねてきたおれにとって、ケテルとの邂逅はむしろ断固避けるべき事態だった。
と、そこでいったん思考を停止。
おじさんの言葉を思い出す――『新しく神官になったケテル様がいらしてるんだよ!』
忘れていた。
おれの知っているケテルはすでにケテルではない。2年前にアレイさんが撃破し、天使の加護をひきはがしてしまったはずだから。
と、いう事は新しくメタトロンと契約した人間がいるんだ。
それはいったい、どんなヒトなんだろう?
「どんなヒトなの? 新しいケテルって」
おじさんはおれがケテルに興味を示したことでご満悦だった。
聞いてもいないのに、ぺらぺらとしゃべりだす。
「今回の神官様は特別だ。国家騎士だった方がメタトロン様に見初められ、契約を行ったんだと! だから、親兄弟もいる、人生も持っている、本当に新しい神官様さ! 何てことだろうね、神官様が私たちと同じように生きているなんて、まるで夢のようだ!」
まるで本当に夢でも見ているような恍惚とした表情で、そのおじさんは語った。
「国家騎士が神官に……?!」
本来、神官は過去を持たず、親兄弟も持たぬはずだから……それは、ただ過去を消し、親兄弟の記憶からも消してしまうだけのことなのだけれど。
セフィロト国の人たちにとって、それは神官が特別である証なのだ。
「じゃあきっと新しいケテルは強いんだろうね」
先頭に不慣れだった前のケテルとは違うだろう。
「ああ、そうだろうな。何しろ、若くして国家騎士団の副団長だった方だ」
「へぇ、すごいんだねえ。まるでアレイさんみたいだ」
「アレイサン? 誰だい、それは」
「あっ、ううん、なんでもないっ!」
あわてて首を横に振り、
「ありがとう、おじさん」
人ごみのはるか向こうに、純白の神官服を確認しながら、おれはおじさんに礼を言ってその場を立ち去った。
グリモワール王国時代、弱冠20歳にして炎妖玉騎士団の部隊長を務めていた彼が、悪魔と契約してレメゲトンになったように、新しいケテルは騎士としての心と力を持ちながらにしてセフィラと成った。
今はまだだけれど、いつか相対した時、きっと強敵になりうるだろう。
早くアレイさんに会って伝えなくちゃ。
いや、こんな情報、アレイさんならとっくに知っているだろうか?
「アレイさん!」
大きな音を立てて宿の部屋の扉をあけると、いつもにも増して不機嫌な様子のアレイさんが迎えてくれた。
「何だ、騒々しい。部屋に入る時くらい静かに帰ってこられんのか、お前は。今年で幾つになると思っている?」
「23歳だよ。いいじゃん、そんなこと! それより、もっと話したいことがあるんだよ!」
窓の横あたりにもたれかかっているアレイさんに詰め寄り、顔をぐいっと近付ける。
近くで見るとアレイさんの眉間にはますますしわが寄っていて、不機嫌さが前面に押し出されていた。普通のヒトは見分けられないかもしれないけれど、ずっと一緒にいた自分にはわかった。こんなにも不機嫌なことは珍しいくらいの不機嫌さだ。よっぽどのことがあったに違いない。
一瞬でケテルのことを忘れ、首をかしげる。
「何かあったの? アレイさん」
「何もない」
「じゃあなんでそんなにも不機嫌そうなの?」
そういうと、アレイさんはひどく驚いた顔をした。
けれど、なぜだか分らなかったけれど、そのすぐ後には不機嫌さが一瞬で瓦解して、それこそ本当に珍しいことに、優しく笑った。
まさか笑ってくれると思わなかった。
「本当にお前は……変な奴だな」
アレイさんは、もたれかかっていた壁から上体を起こし、ぽん、とおれの頭に手を置いた。
そして、ふぅ、と小さくため息をついてから口を開いた。
「つい先刻、『ケテル』と遭遇した」
「あっ!」
そう、おれもそれを報告したかったんだ!
アレイさんは、大きな声を出したおれをちらりと見ただけで、話を続けた。
「新しくケテルが就任したことは知っているな? これまでと違い、過去を記憶し、国家騎士という前歴も持つ異例のセフィラだ」
「あ、うん、実はさっき聞いたんだけどね」
そう答えると、アレイさんは眉間にしわを寄せた。
ああ、やっぱりこれは有名な話だったらしい。もしかすると、いつかアレイさんの口から話題として出ていたのかもしれない。
そんなおれの考えることなんてお見通しなんだろうか、アレイさんはもう一度深いため息をついて、その息と一緒に告げた。
「あれは……危険だ」
「危険?」
「先程、ケテルと遭遇した」
「あ、おれも見たよ!」
「違う。行幸を見たわけではない、あれは、俺とお前に会いに来たんだ。道の真ん中で祀り上げられていたのは影で、本人は堂々と俺に話しかけてきた」
「!」
思わず息をのんだ。
ケテルが、おれたちに会いにきた?
「何を考えているかは不明だ。が、今回のケテルは前任のヤツとは大違いだ。気配で俺とお前を探し出すことができる」
「えっ? じゃあ」
もう逃げられないんじゃ……
「ケテルは、俺達を捕まえる気などない」
「……どういうこと?」
「分からん。もし本気でヤツが俺達を捕える気なら、一人で俺に接触するはずがない。何より、ヤツ自身が『捕える気はない』と言った」
おれとアレイさんは4年前に終結したグリモワール王国とセフィロト国の戦争で、セフィロト側に多大な被害をもたらした戦犯として、第一級の指名手配犯となっている。
国の要であり、また、悪魔の力を使うおれたちと唯一対等に戦えるセフィラの長であるケテルが、おれたちを捕える気がないとは、いったいどういう事なんだろうか?
全くわからない。
アレイさんが不機嫌だったのも、それが分らなかったからだろう。アレイさんにわからないことをおれが考えたって無駄だ。
「ケテルが本気かどうかは別にして、居場所がヤツに知れた以上、早くセフィロトを出なくては」
「……そうだね」
いったいアレイさんは、ケテルとどんな話をしてきたんだろう。
同じように騎士出身で、唐突に人の持ちえないはずの天使の力と悪魔の力を持った二人。
セフィラとレメゲトン。
親近感を抱いたりするんだろうか。それとも、同族嫌悪を感じたりするんだろうか。
おれにはきっと、わからない世界だ。
「おい、くそガキ」
「ガキって言うな!」
いつものやり取りを繰り返し。
「歌劇団はどうだった?」
「あ、うん、それがね、舞台に出るって約束しちゃったよ」
正直にそう言うと、アレイさんの眉間にしわが寄った。
あ、怒ってる。
「勝手に決めて、ごめんなさい」
素直に頭を下げると、アレイさんは大きくため息をついた。
「まあ、いい。どうせそうするつもりだったんだ」
「珍しいね、アレイさん、お芝居とかそういうの、あんまり好きじゃなさそうなのに」
「好きなわけがないだろう」
「だよねえ」
そういうと、アレイさんは、おれの頭をぺしんと叩く。
「分っているなら勝手に決めるな、この鳥頭」
そのままぐりぐりとおれの頭を撫でまわした。
「で? その歌劇団はどうだった?」
「あっ、すっごく楽しかったよ! ルゥナーは可愛くってね、フェリスとシドは強かったし、モーリさんは優しいヒトでね、リンゴもらっちゃった!」
「……そうか」
少しばかり考えている様子のアレイさんは、ふと、尋ねた。
「もし、俺達が秘密裏にこの国を出たいと言ったら、セフィロト国に通報などせず、手伝ってくれるような人間だったか?」
その言葉で、おれはようやくアレイさんの真意を知った。
歌劇団ガリゾーントはもともと北の大国ケルトから来たと言っていた。この国境都市リンボにいるからには、隣国リュケイオンへと向かう可能性が高い。
もし、その一行にまぎれることができたら?
二人だけで国境を超えるより、ずっと成功する確率は高いだろう。
思わず、にこりと笑った。
「うん、きっとモーリとルゥナーは手伝ってくれると思うよ!」