SECT.5 『ケテル』
シドとフェリス、それにルゥナーは一瞬声を失った。
しまった、ちょっと脅かし過ぎたかな。
どうやらおれは、自分で思ってるよりもちょっとばかり強いらしくって、それをあんまり悟らせるなとアレイさんは口を酸っぱくして言うんだけれど。
「何者だ」
シドがぽつりと呟き、おれへの警戒心をあらわにした。
対照的にフェリスは嬉しそうに笑った。
「へっへー、カッコいいじゃん、剣も使える美少女なんて! お手合わせ願えますか、戦女神?」
「いいよ」
アレイさん以外の人と組手するのは久しぶりだ。
でも、鍛錬は欠かしてない。
ルゥナーとシドから距離をとり、長剣を手にしたフェリスと向かいあった。
おれは、両手のショートソードを強く握り、古体術の構えをとる。
「珍しい武器と構えだねぇ、ラック。そんな型は始めて見たよ!」
「剣はほとんど独学のごたまぜ流派なんだ……師匠はいるけどね」
今は亡きグリモワール王国で悪魔騎士とまで呼ばれた人と、魔界随一の剣士と呼ばれた悪魔、その二人が師匠だ。
とてつもなく厳しく、優しく、そして強い彼らは、おれの師匠であり、目標でもある。
「じゃあ、いくよ」
この緊張感が心地よい。
相手と対峙し、見合い、間合いをはかるこの一瞬。駆け引きの中にある、張り詰めた空気。
その空気の中で、おそらくフェリスが自ら仕掛けてくる事はないだろう、と判断した。
きっとそれは、おれの見た目に理由がある。見た目だけならどこにでもいる普通の女の子に見えるのだから、その容姿で相手を油断させるのも一つの戦術だ――そう言ったのは、旅を共にする仲間であり、長い生涯を共にする伴侶であり、また自分の剣の師匠でもある彼だったが。
先手必勝。
「はっ」
短い気合いと共に地を蹴った。
体格差による間合いの違いを考慮し、一気に距離を詰める。
思いもよらなかったであろう速度で飛びこんだおれに動揺したフェリスは、それでも横にステップして初太刀を避けた。
一歩、フェリスが退く。
長剣の間合いをはかるための一歩だ。
もしアレイさんだったら、おれが一足で突っ込んでくることはお見通しで、すぐにカウンターが飛んでくるのだけれど、どうやらフェリスは様子を見ているらしく、間合いをきっただけだった。
常に自分より強い相手と闘ってきたおれの中に、『手加減』という文字はない。
戦闘だけでなく、普段の稽古でさえも自分より数段上の腕を持つアレイさんとばかり組手をしている。時にはマルコシアスさんが教鞭をとるけれど、どちらも本物の剣士で、未熟なおれに対してもちゃんと手加減して稽古を付けてくれていた。
とても恵まれているのだと分かっている。
そして、おれは今、それがどんなに難しい事なのか、今ようやく思い知っている。
手にしているのはショートソードだけれど、この手合わせで刃を使うのは論外。かといって打撃も危険だ。
だとしたら、どう攻撃しようか。
困惑が伝わったのか、おれに剣を向けているフェリスがわずかに剣先を下げて笑った。
「困ってるみたいだねぇ、戦女神」
「うん、怪我させないようにするにはどうしたらいいかなって」
あまりにこれまでの敵と違い過ぎて――敵? 敵だって?
違う。
フェリスは敵じゃない。
はたとその事に気付き、おれははっとした。
「あー……そっか」
だからうまく戦えないんだ。
フェリスは、敵じゃない。刃を向けるべき相手じゃない。
ようやく納得して、腰の鞘にショートソードをおさめ、徒手空拳の古体術の構えをとる。
「え? 何? 戦線放棄?」
「違うよ。これはフェリス、おまえを傷つけないためだ」
肩をぐるんとまわして、拳を突き付けた。
複雑そうな表情をしたフェリスは、さすがに丸腰の相手に斬りかかれないと思ったのか、シドの持っていた木刀に持ち変えた。
「こい、フェリス」
「怪我しないでよ、グレイス」
余裕の笑みで、フェリスは勢いよく木刀を振った。
手元を見ながら視界の隅に木刀をとらえ、懐に飛び込んで腹部に軽く掌底の一撃。
さすがによく鍛えてあるので、軽くよろけただけだった。
が、その攻撃の速度に、フェリスの気配が変わった。
「油断してると、フェリスの方こそ怪我するよ」
「……そうみたいだね」
フェリスの打ち込み速度が変わった。
素手で剣を相手にする時は、間合いを詰めた方がいい。
フェリスの剣筋を読み、紙一重で避けながら懐に飛び込んだ。
左手の篭手で木刀を横から弾き飛ばし、帰ってきた刃は完全に見切り、しゃがんでかわした。
立ち上がる時の勢いを使ってそのままフェリスの顎を下から掌底で打ち上げる。軽く当てたつもりだったが、フェリスはそれで体勢を崩した。
その体勢の崩し方に、ふと違和感を覚える。
さっきはこんな程度の衝撃でよろけたりしなかったはずなのに?
「……」
一筋の違和感、しかし、そんなものにかまけている余裕はない。
両の拳を強く握りしめ、自分から突っ込んだ。
警戒したフェリスは冷静だった。
おれの力を利用して倒そうというのだろう、突っ込んだのに合わせて木刀をまっすぐに突き出した。
――お前の攻撃は真っ直ぐだな。
彼がいつも口を酸っぱくするほど繰り返した台詞が脳裏をよぎった。
飛んできた切っ先を体をひねってかわし、その回転を利用して大きなモーションで顔に踵を打ちこむが、さすがに後ろにステップしてかわされた。
が、そこは計算済み。
そのまま軸足を浮かせ、蹴りの軌道を変えて木刀の刀身を蹴り飛ばした。
驚いたフェリスの顔。
おれは、着地と同時にフェリスの足を払っ――
「?!」
その瞬間、凄まじい殺気を感じて、おれは一瞬にしてその場を飛び退った。
全身を射抜くような激しい視線。
その視線から逃れ、距離を置き、離れたところからおそるおそるフェリスの顔をあげた。
「うわぁ、びっくりしたっ。急に視界から消えるなよ、グレイス!」
そこには、先ほどと同じようににこにこと笑うフェリスの姿。
何だろう、この違和感。そして殺気と、敵意――
「じゃあ、そこまでにしましょう」
ルゥナーの声でなんとか身体の呪縛は解けたけれど、まだ心臓がばくばくと鳴り響いている。殺気の残滓が全身を震わせる。
あんな殺気を受けたのは、戦争の時以来だ。
フェリスは、真紅の舞台衣装についた土をぱたぱたとはたいて落とし、手にしていた木刀をシドに返した。黒のニット帽を、少し深めにかぶり直していた。
猫のようなセルリアンの瞳は、変わらずキラキラと光っていた。
「ねぇ、ルゥナー嬢、グレイスもここに泊まるの? 女性部屋、残ってる?」
「グレイスは、素敵な旦那さんが宿で待ってるのよね」
「え、なに、グレイス、結婚してるの?! 歳はいくつなの?! 旦那さんってどんな人?!」
「えーと、結婚してるよ。んー、2年前かな? だから今年で23歳くらいで……」
「23歳?! オレっちより5つも年上じゃん!」
しどろもどろと返答していると、詰め寄るフェリスの後ろ襟を、シドが掴んで引き戻した。
「落ち着け、この馬鹿」
「そこ引っ張んなよ、シド!」
じゃれあうような二人を見て、ルゥナーはくすくすと笑った。
「やっぱり二人とも、仲良しじゃない」
もちろん、フェリスとシドが間髪いれず反論したのは言うまでもない。
その後も、たくさんの人に挨拶をして、大きなテントの中を隅々まで歩き回って。
明日もまたここへ来るという約束をして、おれは歌劇団『ガリゾーント』のテントを離れた。
座長のモーリ、歌姫ルゥナー、それに剣舞をしていた黒ニットの金髪フェリスと、藍色髪のシド。
楽しくなりそうだ。
わくわくする気持ちを抱えながら、おれはアレイさんの待つ宿への道を急いでいた。
が、大通りを横切って行こうとすると、大きな人だかりができていて、すんなりとは通れそうにない。朝は市をやっているから仕方がないとして、なぜこんな昼も過ぎた夕刻近くに?
「ねえ、何かあったの?」
隣にいたおじさんに聞くと、彼は興奮した様子でこう言った。
「何かあったの、だと? いまこの国境都市リンボに、新しく神官になったケテル様がいらしてるんだよ! 本当に突然の訪問だったが、一目見たいもんだ。なにしろ、天使様の一番近くに坐す御方なんだからな!」
ケテルだって?!
その名を聞いた瞬間、全身の血がざっと引くのが分かった。
光の矢。狡猾な笑みと、金冠、血――
ぐらりと身体が傾いた。
心臓の真上に刻まれた、もう治ったはずの傷跡が疼く。
ダメだ。思い出しちゃダメ。
目の前の景色が薄れる。
がくりと膝をついて倒れることだけは何とかこらえた。
呼吸が速い。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?!」
おじさんの声が遠くに聞こえる。
大丈夫だ、大丈夫。あれからもう、4年もたってるんだから。
胸のあたりがぐるぐると回る。キモチワルイ。
『ケテル』――セフィロト国で崇拝される、国に使える神官のうち、一人。天使を召喚することができるといわれる彼らは全部で十人、うち、ケテルが召喚するのは天界の長とも呼ばれる強大な天使、メタトロン。
そして、おれの大切な人の仇でもある。
人だかりの向こう、かすかに途切れた群集の隙間から、真っ白な神官服が見えた。