SECT.2 中央広場の邂逅
セフィロト国では、どの街でも規模の大きさに差はあれ、午前中には市が開かれる。大方は幅の広い道の端や広場でテントを張った様々な行商人が好き好きに店を構えるという簡素なものだ。街の商店街が仕切っているはずだが、場代も安く、旅の商人たちは好んで利用する。国もその市を奨励しているために補助が出る事もある。
国境都市であるリンボの市場も早朝から熱気に包まれていた。
海から遠い内陸部に位置するこの国境都市においては少ない水で育つ根菜類と寒さにも強い小麦が主食だ。他にも、遠くから運ばれてくる魚介の加工品、リュケイオンから流入する美しい工芸品などが多く見受けられる。
ただ、国境に沿って建てられた城壁に張り付くように半円の形を描く都市の特性上だろうが、普通なら街の中央を貫くはずのメインストリートが外円部の城壁に沿って横たわっている。メインストリート沿いに露店が多いのだが、半円の中心に位置する国境の関からメインストリートに向かって放射状の大道路が何本も伸びている。
また、都市の玄関口と隣国の関所とのちょうど中央に、大きな広場があった。放射状の道をいくらか遮る様にして横たわっている。物見せの大きなテントや出店の並ぶ大きな広場。
広場へと向かう道の途中、天使をかたどった装飾や家の扉に取り付けるお守りが多く目に入った。かつてのグリモワール王国で、悪魔の像を多く見たように。
「本当にセフィロトの人は天使さんの事が好きなんだね」
すると隣にいた彼も静かに口を開いた。
「そうだな、建国以来およそ1000年、セフィロト国は天使信仰の歴史と共に歩んできた。それはひとえに、天使を召喚してその力を借りる事の出来る『セフィラ』という神官が存在したからだ」
セフィロト国には『セフィラ』と呼ばれる国家神官が10人存在するのだが、彼らは天界から天使を召喚し、その力を使役する。
セフィロト国が常に強大な国であり続けられたのは、その天使、ひいては神官の力によるところが大きかった。4年前の勝利にも、その神官たちが多大なる貢献をしていた。
広場の中央には天使ミカエルを象った彫像が佇んでいた。
アレイさんと二人、その広場の中央へとたどり着き、乳白色の像を見あげて、ぽつりと呟いた。
「ミカエルさんだけじゃないけどさ、天使さんは綺麗だね」
そう言うと、アレイさんは渋い顔をした。
どうしたんだろう、おれは何か変な事を言ったかな?
「……お前は面食いだからな」
「うん、まあ、そうなんだけど」
面食いだ、と言われて否定する気はさらさらない。
綺麗な人が好きだ。天使さんもそうだけれど、アレイさんも、それから、たくさんの悪魔たちも。
「セフィロト国は天使さんたちに守られているんだね」
「そうだな」
ぽん、と頭に手を置いて、アレイさんは同意した。
その言葉にはいろいろな感情が含まれていて、おれは思わず口を噤んでいた。
4年前までディアブル大陸には、対立する二つの国家があった――天使を祀るセフィロト国と、悪魔崇拝の王国グリモワール。
1000年の歴史を持つセフィロト国の隣にグリモワール王国が誕生したのは、今から約450年前だ。その時から2国の歴史は互いに争いあう凄惨な関係に埋め尽くされていった。
当時セフィロト国から独立する際、初代グリモワール国王ユダ=ダビデ=グリモワールは魔界から悪魔を召喚し、加護を受ける術を手に入れた。
魔界の王リュシフェル、刻の悪魔メフィストフェレス、空間の悪魔ベルフェゴール、戦の悪魔マルコシアス、灼熱の獣フラウロス……数を挙げればキリがない悪魔達の中で、初代国王ユダ=ダビデ=グリモワールは72人の悪魔を選んで召喚した。未来を知り、水や炎を操り、凄まじい身体能力を持つ悪魔達の力を借りる契約を交わすと同時に、その証として72枚のコインを創ったのだ。
それを助けたのが稀代の天文学者ゲーティア=グリフィス。彼は悪魔と並はずれた親和性を示し、悪魔の召喚方法や悪魔学の基礎を確立したのだった。
グリモワール王国独立後、初代ダビデ王は『レメゲトン』と呼ばれる72人の天文学者を任命し、コインを与えた。
そして、グリモワール王国は繁栄のときを迎えた。
しかし、悪魔の力を借りて繁栄を極めたグリモワール王国にも衰退の時は訪れた。
時を経るにつれてコインが失われていき、そのコインで悪魔を使役する天文学者も減っていった。
そして、4年前の戦争へと繋がったのだ。
相容れぬ二つの国は衝突し合い、2年に満たない短く凄惨な戦争の果てにグリモワール王国が倒れた。
だが、グリモワール王国は4年前に倒れた。悪魔は表舞台から姿を消してしまったのだ。
普段は忘れていた罪状を目の前に突き付けられ、おれは俯いた。
ああ、悪い血が全身でぐるぐると渦巻いているかのようだ。腹の中心からせり上がってくる痛みと嫌悪で、思わず目を閉じた。
傍から見れば、二人で天使ミカエルの像の前に佇み、祈りを捧げているように見えただろう。
それは間違っていないけれど、きっとおれとアレイさんの中に渦巻いていた感情は、その場にいた誰にも分からないはずだ――普通の人は、自分の両手が真っ赤に染まっている夢を見てはっと目覚める事なんてないだろうから。
そうやって真摯な眼差しで天使の像を見つめ佇むおれたちは、少しばかり目立っていたらしい。
気がつけば周囲の視線を釘付けにしていた。何が悪かったのか、遠巻きに見つめて何か噂話でもしているようだ。
もしかして、正体がバレてしまったんだろうか?
アレイさんもそれに気づいていたらしい。
「すぐにここから離れるぞ」
「うん」
しかし、少しだけ遅かった。
好奇の目から避けるように二人で像を離れようとすると、一人の男性に声をかけられた。
「あの、すみません。旅の方ですか?」
振り向くと、温和そうな眼鏡の青年がこちらに向かって微笑みかけていた。
淡い茶の髪は後ろで一つに束ねている。この暑い時期に首まできっちりとしたケルト地方の民族衣装を纏っていた。ケルト地方の民族衣装は、首周りと袖、それに前部分のボタンを隠すように美しい刺繍がなされた幅広の布を縫い付けてあるのが特徴だ。基本的に生地は白で、ゆるい上着を腰の紐で止める短衣タイプの服だった。下はこれまたゆるいサイズの黒ズボン、足元は黒ブーツ。
セフィロト国の人間よりさらに彫りの深いくっきりとした顔立ちをしているのは、ケルト人の特徴だ。
国境都市で異国の人間に会うのが珍しいわけではないが、自分たちに声をかけてきた事は警戒に値する。
「何か?」
アレイさんが極寒の視線をその男性にくれる。少し不機嫌なだけなのだが、非常に人相がよろしくないので、残念ながらおれはその表情が好きじゃない。何より、無意味に相手を怖がらせてしまうのだから始末に負えない。
が、その男性はそれに臆する様子もなくにこにこと笑いかけた。
「初めまして、突然申し訳ありません。私、歌劇団ガリゾーントの座長を務めております、モーリと申します。以後、お見知りおきを」
「歌劇団?」
首を傾げると、メガネの男性はにこり、と笑った。
「ええ、街から街へと渡り歩き、娯楽を提供する歌劇団です」
モーリ、と名乗った男性が指さした先には、広場の一角を占める大きなテントが立っていた。
「旅の方とお見受けしますが、少々お時間よろしいでしょうか?」
歌劇団と言うと、歌や踊りなどを見世物として各地を渡り歩く劇団の事だ。
おれは見た事がないけれど、噂には聞いた事がある――非常に煌びやかで華やかなその舞台を見ると二度と忘れられなくなる、と。
「ねえ、アレイさん」
行こうよ、と言おうと思ったのに、アレイさんはため息でもっておれの言葉を分断した。
「どうせ止めても行くと言うんだろう?」
さすがアレイさんだ。
嬉しくなって、思わず微笑んだ。