SECT.26 カイン=ウィンクルム
ケテル? ケテルだって?
驚いたが、そのヒトから感じる気配は確かに天使のものだった。
それも、おれがよく知る天界の長の気配と同一だ。
「これ以上リュケイオンの地を荒らす事は僕が赦しません」
涼しげで辛辣なテノール。
きぃん、と軽い音で剣を収めた聖騎士からはメタトロンの気配が消失する。いったん息をついた彼は、ちらりとおれの方を見た。
「君がグリフィスの末裔ですか。ずいぶんと幼い。君がカマエルを倒したとは、到底信じられません」
流した金髪に透き通る蒼の瞳。歳はアレイさんと同じくらいだろうか。しかし、黒衣に身を包んだ黒髪紫瞳のアレイさんが悪魔騎士ならば、このヒトは文句なしの聖騎士だった。
純白の騎士服も銀色の装備も、彼の為にデザインされたかのようにぴったりと似合っている。
アレイさんと同じように、騎士だった身分から神官になったヒトだと聞いている。
何より、おれたちの事を見逃した、とアレイさんが言ったのはつい先日の事だ。
「あなたが新しいケテル?」
「ええ、そうです」
右手を胸に当て、軽く会釈する騎士の礼をしながら、その聖騎士ははっきりと言った。
「元聖騎士団副団長、カイン=ウィンクルムと申します……以後お見知りおきを、ラック=グリフィス女爵」
「ケテル、そこどいてくれる?」
銀髪のヒトが不機嫌そうに言う。
ところが、カインは全く動こうとしなかった。それどころかミカエルを召喚した銀髪のヒトを辛辣な視線で射抜いた。
「ティファレト、ミカエルを帰しなさい」
「どいてよ、ケテル。邪魔なんだけど」
なおも食い下がった銀髪のヒトにため息をつき、カインは再び剣を抜く。
「……メタトロン」
静かに天使の名を呼ぶと、カインの全身から凄まじい力の奔流が迸った。
戦場以来に感じる天界の長の力はやはり強大で、ルシファの加護を受けているというのにとてもじゃないけれど勝てる気はしなかった。
「命令違反です」
次の瞬間には、銀髪のヒトが地に伏していた。
意識を失わせたのだろう、ミカエルの姿がふっとかき消えた。
「……!」
攻撃が全く見えなかった。
フェリスも同じなのだろう。肩をすくめて口笛を吹いた。
力を失って地に伏した銀髪のヒトに向かってすっと指を向けると、その姿が一瞬で消失した。どうやらメタトロンの力で転送したようだ。
以前のケテルとはけた違いだ、と言ったアレイさんの台詞を思い出した。
「君も今のうちに去りなさい。急がなければ、次はマルクトが出てくるだろう。フェリス、君も早く王城に戻りなさい」
「えっ、シアさんきちゃうの? やっべー、オレっち、悪魔の契約が終わってすぐ、黙って出てきたんだよなぁ。ねぇ、ケテル、シアさん怒ってた? 怒ってた?」
「早く戻りなさい」
二度目の勧告。
フェリスはぶーぶーと言いながらも背に片翼を広げた。紫がかった翼に、先ほどの感覚の消失を思い出しぞっとした。
「じゃーね、グレイス。シアさんが赦してくれたら、また会えるかもねっ」
黒ニット帽の下のセルリアンの瞳をきらきらとさせて、フェリスは飛び立っていった。
国境に残されたのは、おれとカインの二人だけ。
おれはルシファを魔界へ帰し、ようやく左手のショートソードを収めた。天空に待機していたフェネクスにもお礼を言ってさよならする。
完全に武装を解いたおれをみて、カインは言った。
「君も行きなさい、ラック=グリフィス。こんな国境で燻らず、早く離れなさい」
「……カインはおれのこと、捕まえようとしないんだね」
そう聞くと、カインは少し驚いたような顔をした。
「君も僕の事をその名で呼ぶのですね。ケテル、とは呼ばないのですか?」
「だってお前には名前があるじゃん。おれが前のケテルをケテルって呼んでたのは、本当の名前を知らなかったからだよ。それに何より、おれにとってケテルは、前のケテルだけだ。ねえちゃんを殺して、おれとアレイさんの平穏をぶち壊した、あいつだけだ」
はっきりそう言うと、カインは微笑った。
その笑顔にどきりとする。
「君も同じ事を言うのですね」
どこか悲しそうな、複雑な笑顔だった。
「僕は、君たちに世界の理を説く事が出来ないのを歯痒く思いますよ」
「世界の理……」
天使と悪魔が繰り返すその言葉を口にして、カインはさっと踵を返した。
聖騎士のマントが初夏の風に翻る。
「行きなさい。そして、世界の理を知りなさい。その後なら、僕は君たちの前に喜んで立ちはだかりましょう」
「カインはやっぱり、敵なの?」
そう聞くと、カインはふっと足を止めた。
そして、ゆっくりと振り返った。
金髪が風に揺れて、澄んだ蒼の瞳が太陽の光を反射した。絵に描いたような聖騎士がそこにいて、おれは思わず見とれてしまっていた。
カインは固く引き結んでいた唇を開いて告げた。
「敵です」
きっぱりと言い切られ、心のどこかがきゅうっと痛む。
なぜだろう、このヒトと敵対したくない、と思った。
「どうしても?」
「もし君が悪魔をすべて捨てるというなら、喜んで味方になります」
「それは無理だよ!」
「ならば、君は僕の敵です」
それ以上言い返せなかった。
「君の仲間が来ますから僕は去ります。いいですか、すぐに国境を離れるのですよ」
「仲間?」
ふと振り向くと、四枚翼の天使が天から降りてくるところだった。
「冷てーな、ケテル。ここまで来といて俺様には挨拶なしかぁ?」
おれの背後に降り立って、肩に手を置いた。
味方。
その言葉通り、おれはヤコブの手にほっとしていた。
フェリス、銀髪のヒト、そしてカイン。
連続して相対したことで、気づかぬうちに緊張していたのだろう。
「お前が何も言わずに飛び出していくから、シドは動くしルゥナーはキレるしアウラは呆れるし、大変だったんだぜ?」
「あ、ごめん」
「……ったく」
ため息をついたヤコブは、金髪の間から深紅の目を覗かせ、カインに言った。
「帰るぜ、黄金獅子の末裔。ここはリュケイオンだ。ケテル、お前がここにいることだって本来ならリュケイオンとの協定違反だろう?」
「人間として堂々と領権侵害をしている天使に言われたくはありません」
すぱりと切り捨てたカインは、再びメタトロンを召喚した。
「いいですか、ラック=グリフィス。次に会う時までには、すべてを知った上で僕と戦う決心をしておいてください。それならば、お相手しましょう。アレイスター=クロウリーにもよろしくお伝えください」
そんな言葉を残して、カインはふっとその場から消えた。
片割れ、世界の理、柱。
二つに分かれた世界。
おれには分からないことだらけだ。
それを全部知った時、おれはいったいどういう結論を下すんだろう――?
「ほれ、次は落とすなよ?」
ヤコブが右手用のショートソードをおれに渡した。
空から落としていたのだ。すっかり忘れていた。
「ありがとう」
ショートソードを鞘におさめ、ようやく元に戻った事を実感した。
ぎこちないながらも左手が動いてほっとした。
ラースの声はしなかったし、心臓の鼓動も落ち着いていた。
「さあ、とっとと帰るぞ。みんな心配してんだからな?」
ヤコブの言葉ではっとした。
ルゥナーはきっと怒ってるんだろうな……シドも。
帰った時に聞くであろう二人分の説教を思って、おれは大きなため息をついた。
ヤコブに連れられて帰った先で待っていたのは予想通りのお説教。
昼御飯の時間をおして続けられたそれは、午後にモーリが帰ってくるまで続いたのだった。
「もう二度とこんなことしないでっ」
ほとんど悲鳴を上げるようにして締めくくったルゥナーは、最後におれをぎゅっと抱きしめた。
「本当に心配したのよ」
「……ごめんね、ルゥナー」
本当にごめん。
おれは反省し、心の底から謝った。
おれが周りのヒトを大切に思っているように、周りのヒトもおれのことを大切に思ってくれているから。
それを絶対に忘れてはいけない。
再びその言葉を心に刻みつけた。