SECT.25 ティファレト
心の底から歓喜がわき上がる。
会いたかった、と全身が叫ぶ。
「会いたかったよ、レメゲトン」
おれが思っていたのと同じセリフを、目の前の神官は口にした。
「おれも会いたかったよ――銀髪のヒト」
セフィラ第6番目ティファレト。
耳を隠すくらいだった髪は肩に届くほどまでのびていて、戦争が終わってから時を経ているのを実感した。
しかし、纏っている真っ白い神官服は戦争当時と同じもので、あの雨の中で左胸の契約印を焼いた時のどうしようもない無力が想起して、心臓が苦しくなった。
そう、おれはあのヒトから加護を引き剥がしたはずだったんだ。
それなのに、銀髪のヒトの全身からは天使の気配がする。
「もしかして……」
一度切れてしまった契約を再び戻す。
おれは、それがいったい何を意味するのかこの身をもって知っていた。
「ミカエルさんと再契約したの……?」
銀髪のヒトは笑った。
そして、その笑顔に違和感を覚えた。
このヒトはいったいどっち?
ミカエルさんを召喚しているわけではないのに、このヒトからは双子の銀髪セフィラの両方の気配がした。
雰囲気の違う双子――『光』と『音』。
どうして?
「どうしてミカエルさんを召喚してないのに一人なの?」
「ミカエルに、一つに戻してもらったんだ。僕らはもともと一つだったモノだから、それを戻してもらっただけ」
「ミカエルさんが……?!」
驚いた。
二人の人間を一人にする。
そんな事が出来るなんて!
「ずっと会いたくて仕方なかったよ、グリフィス。それから、リュシフェル」
その言葉で、額の印がかぁっと熱くなる。
焦がれる感情が流れ込んでくる。
「君と相対する時をずっと楽しみにしていたんだ」
口調はどちらかというと穏やかだった方のヒトに近いだろうか。
それでも、おれに向けた敵意は激しい口調だった方のヒトに近かった。まるでかみつくような激しい敵意が肌に刺さってピリピリする。
ぞっとするような殺気だったフェリスとは違う、純粋で真っ直ぐな――敵意、だった。
「そっかぁ、戦争の時にティファレトを倒したレメゲトンって、グレイスだったんだ」
フェリスが納得したようにぽん、と手を打つ。
「別たれたモノを 一つに戻す そうまでして 魔界の存続を 拒むのか ミカエル」
アガレスさんが淡々と言った。
一つだったモノを二つに。二つだったモノを一つに。
別たれた世界。
天界と魔界。
天使と悪魔。
おれにはもう、なにも分からないよ。
ただ一つ分かる事は、目の前にいる銀髪のヒトがおれに向かって挑む様に敵意を曝している、という事実だけだった。
左手はピクリとも動かない。
額が焼けるように熱い。
銀髪のヒトと並んで立つフェリスが戦闘に参加する事はないだろうが、気まぐれな彼の事だ。いつまたおれに刃を向けるか分からない。
どうする?
「フェネクス、また隙を見て逃げよう。上空で待機してて」
そっと呟くと、炎の翼を持つ巨大な鳥は大きく羽ばたいて空へと飛び立った。
「アガレスさん、ありがとう。また呼ぶね」
「無謀は愚行 用心せよ 幼き娘」
金目の鷹が消失する。
全身を覆っていた加護が消え、国境の壁付近の草原におれとフェリスと銀髪のヒトだけが残った。
雨の季節になる前の、少し夏を含んだ風がおれたちの間を駆け抜けていった。
春から夏に向かう、一番好きな季節。すべてが始まったあの朝と同じ、銀髪のヒトを目の前にして。
「リュシフェル!」
「ミカエル!」
おれたちは、同時に天使と悪魔の名を呼んだ。
国境を越えて、リュケイオン。
天使の国でも悪魔の国でもない場所に、二つの強大な気配が出現した。
ほとんどそっくりの姿かたちをした一対の天使と悪魔。
「ああ、本当に久しぶりだね。懐かしい。あの時もこうして君と向かい合ってた」
「そうだね。本当に――」
昨日の事のように思い出せる。
グリモワール王国の天使崇拝の村で育った彼らは、グリフィス家による天使崇拝弾圧の被害に遭い、グリモワール王国を追われた。その後、いったいどういう人生を彼らが歩んだのかは知れないが、セフィロト国でミカエルさんと契約し、神官の地位を手に入れた。
そして、戦場でおれと敵対し、刃を向けられたおれはすべてを終わらせるために――
「終わってなかったんだね。あれで終わりじゃなかったんだ」
再契約。
一度切れてしまった契約を再び結び、肉体の時を止める禁忌の術。
おれがたくさんの悪魔とコイン契約を紋章契約として結びなおしたように。
「当たり前だよ、グリフィス。君が生きている限り、グリフィスが存続する限り、『僕ら』はとまれない」
僕ら、という言葉にいったいどこまでが含まれてるんだろう。
双子の二人、という意味か、それとも銀髪のヒトの背後に佇むミカエルさんも含めているのか。
見た目がそっくり同じな、天使と悪魔。
――ああ、そうか
どうしておれはずっと気づかなかったんだろう?
当たり前すぎて
「ルシファ」
カマエルとフラウロス。
ラファエルとハルファス。
マルコシアスとグラシャ・ラボラス。
同じ形をした天使と悪魔は、悪魔と悪魔は、みなお互いを求めあって、消しあって、最後には――
「ごめん、分かるのが遅くて、ごめん」
今さらすぎるかもしれない。
ミカエルさんを目の前にした時、ルシファから流れ込んでくる感情は、いつだって会いたくて会いたくて焦がれていた。
でも、その感情の裏に潜んでいたのは、消滅させることへの躊躇。
「ミカエルさんはルシファの片割れなんだね」
そう言って振り返ると、ルシファは悲しそうに笑った。
ああやっぱりそうなんだ。
「ルシファもミカエルさんと闘うの?」
「私は 争いを 望んでいません」
いつだってルシファは言っている。
争うつもりはない、と。
そしてミカエルは答える。
今さら何を、と。
銀髪のヒトの背後に浮かぶ美しい天使も、全く同じ顔で悲しそうに微笑んだ。
「崩壊する世界に 慈悲を それが兄さんへの せめてもの餞」
鼓膜を揺らす音ではなく、頭の中に直接響いてくる不思議な音でミカエルさんは言った。
ミカエルさんは、魔界を滅ぼそうとしているんだ。
なにも分からないおれにも、それだけは分かる。
「ルシファ、おれも戦いたくはないよ。いつも、平和に暮らせたらいいなって思ってる」
「そうですね ルーク いつも貴方は 平穏を願っている」
「だけどもしミカエルさんが魔界を滅ぼそうとしてるんだったら、おれはどうしたらいい?」
「それは 貴方が 決める事です ルーク」
「そう」
おれが決める事。
フェリスと銀髪のヒトを前にして、ミカエルさんはルシファの片割れで、魔界を滅ぼそうとしていて。
戦いたくはない。
ルシファはそう言うし、おれも心の底からそう思う。
それなのに。
「駄目なんだ、ルシファ。おれは戦いたくないけど、おれの大切なモノを壊されるのは絶対に嫌なんだ」
悪魔を信仰するグリモワール王国のヒトたちも、そのヒトたちが住む大地も、そのヒトたちが育ててきた心も、なにも壊してほしくない。
もしミカエルさんがルシファを倒して魔界を壊してしまったら、そのすべてがもう二度と戻ってこないから。
――自分が生まれたから、好きだから。そんな身勝手な理由で誰もが大切なものを選ぶのよ。そして大切にしたいものを守る心が二つ、相反するとき、それは衝突するしかない
いまはもういない育て親のねえちゃんが、戦争がどうして起こったのか、と聞いたおれに言った言葉だった。
ねぇ、ねえちゃん、本当にそうなの?
ミカエルさんとルシファは戦うしかないの?
「だからもし、ミカエルさんが魔界を滅ぼすって言うんなら――」
ラースはマルコシアスさんと戦わなくちゃいけないの?
おれは――アレイさんと戦う事になるの?
迷いを振り切ると、左手がほんの少し、微かに動いた。
ゆっくりと左手を握りしめると、少しぎこちないながらも指が動いた。
先日貫いた傷の痛みはあるが、この手を動かせる、という感覚がようやく戻ってきた。
「おれは、そんな事させない。もしミカエルさんがルシファを消そうとするのなら、おれはそれに抗うよ」
革命軍を編成する、と宣言したサンの強い瞳を思い出した。
仰せのままに、と跪いたクラウドさんはとても穏やかな目をしていた。
おれとアレイさんはそれを承諾した。
今さら、おれの我儘であのヒトたちの想いをなかったことにする事なんて絶対に出来ない!
「もしミカエルさんが魔界を滅ぼすって言っても、おれは絶対にそんな事させない」
右手のショートソードはどこかに落としてしまっていたから、痛む左手を無理やり動かして右腰の剣を抜いた。
「ぜったいに負けないっ!」
「それはこっちの台詞だよ」
「え、ちょっと待って、オレっちは無視? っていうかミカエルとリュシフェルが戦い始めたら、確実にオレっち巻き添え喰って死んじゃう気がするんだけど」
フェリスが慌てて飛び退った。
「どいててよ、フェリス。すぐ終わる……ミカエル!」
銀髪のヒトは右手の手甲から銀のブレイドを閃かせた。
「ルシファ!」
空っぽだったおれの右手に、漆黒の剣が出現する。
考えるより先に地を蹴った。
先手必勝!
両手の刃をクロス、一気に距離を詰めて閃かせた。
それを、銀髪のヒトが迎え撃つ。
おれは間違いなく全力で、それを受けた銀髪のヒトだって全力だった。
それなのに。
おれの刃は思いがけない方向から弾かれ、ルシファの加護があるにもかかわらず凄まじい勢いで吹き飛んだ。
強い付加がかかって、治りきっていなかった左手の傷が疼く。
ぐっと全身に力を込めて体勢を整え、ざっと地面に着地した。
すぐに顔を上げたおれの目に飛び込んできたのは、おれと銀髪のヒトの間に立つ、聖騎士の姿だった。
「ティファレト、そこまでにしなさい」
「何するの? ケテル。僕らの邪魔しないでくれる?」
銀髪のヒトの言葉に、おれは愕然とした。