SECT.24 シャックス
フェリスは強い。片手では絶対に勝てない相手だ。全快のときだって真っ向勝負で勝てるかどうか分からないのに!
時間をかけることに得はない。
短時間で決めてやる。
フェネクスの加護を全身に廻らせ、右手のショートソードを強く握りしめる。
「今度は最初から全力だ」
「いーねぇ、オレっち、グレイスにはそういう表情の方が似合うと思うよ」
片翼のフェリスをしっかりと見据えた。
空中戦はおれの最も得意とするところだった。
風燕と千里眼。
全力で、一瞬でカタをつけてやる。たとえ、フェリスの召喚した悪魔がどんな能力を持っていようとも。
ほんの一瞬でいい。それは、おれにとって一瞬じゃない
唇を引き結び、全感覚を集中させた。
その途端、周囲の時の流れが急激に遅くなった。
もともと鋭いおれの五感は、悪魔の力を借りて人知を越えたものになる。
全身で風を読み、相手の視線で攻撃を予測し、鼓動で相手の感情を知る。全身から受け取る情報は、時の流れを遅らせるほどに多大だった。
千里眼を発動し、おれは一気にフェリスとの間合いを詰める。
斬撃音に脳髄を揺さぶられる前に聴覚レベルを下げると、現実の感覚が薄くなり、まるで水中を移動するかのような感覚になった。
それでも凄まじい速度で空を切ったフェネクスの炎の翼は、一気におれをフェリスの目の前まで導いた。
その速度に息をのむフェリス。
予備動作のない動きで鋭いナイフの先をおれの眼前に向けた。
普段の何倍にもスローになった攻撃を避けるのは簡単だ。
紙一重でそれを避けて懐に入り込み、右手に握ったショートソードの柄で顎を狙う。
フェリスは体をそらすようにしてその攻撃を避けた。
腹筋の力だけでそらした上体を元に戻したフェリスが、口元を緩ませる。
攻撃を仕掛けてくる、と思ったが、違っていた。
一瞬、間合いを取る。
不自然に途切れた攻撃に躊躇するおれを尻目に、フェリスはゆっくりと唇を動かした。
違う、何かを言葉を口にしたのだ。
その動きを追ったおれの視界が、急に狭まった。
「?!」
ゆっくりとフェリスの唇が動く。
その言葉は?
――シャックス
ぞわり、とおれの周囲を悪魔の気配が包み込んだ。
危険。
全身の感覚が一気に冷え込む。
フェリスの背後に浮かぶのは、片翼の悪魔――第44番目のコインの悪魔シャックス。
「ああ、その表情、いい感じだね! 何が起きてるのか分かんなくて絶望してさ」
聴覚を遮断したはずだったのに、フェリスの声が通常のように聞こえる。
時間の進み方が急激に速くなっていく。
千里眼が強制的に解除された?!
「るーく にげて! シャックスは ヒトの感覚をうばうんだっ るーくが 感覚を うばわれたら――」
耳元に響いているはずのフェネクスの声が遠ざかる。
視界が狭まって、音が消えていく。
目の前でにやにやと笑うフェリスが見えなくなっていく。
自分が浮いている感覚も薄れていく。
「うっわ、すっげー! グレイス、めちゃくちゃ目ぇいいんだな! すっげー遠くまで見える」
フェリスがおれの感覚を奪い取っているだって……?
ああ、だめだ。
視界が薄れてきた。
意識ははっきりしているのに、感覚だけがすべて薄れていく。
「るーくっ」
フェネクスの声が消えていく。
どれだけ目を凝らしても、なにも見えなかった。
「ばいばい、グレイス」
ひらひら、とフェリスが手を振ったのを最後に、おれの感覚はすべて消失した。
まるで音のない暗闇の中に突然放り込まれたようだった。
人並み外れた五感を頼りに闘うおれにとって、感覚の消失はそのまま負けを意味する。おそらくこのままフェネクスの加護を失って地面に叩きつけられたっておれは気づかないだろう。
声を出しても、喉を震わせている感覚すらなかった。
悪魔の気配すら感じない。
目の前にいるはずのフェリスの殺気もまるで最初からなかったかのようだ。
感覚がないって、こういう事なんだ。
絶望ともまるで違う、なにも存在しない世界に放り込まれたおれは、茫然となっていた。
感覚をうしなったおれは、いったいどうしたらいいんだろう?
ぞっとした。
鳥肌が立つような感情だったのに、全身の感覚がない今、意識だけが焦っていた。
怖い。
感覚がないのはこんなにも恐ろしい事だというのを心の底から理解した。
いま、自分は落下しているのか?
それとも、フェリスのナイフで切り裂かれているのか?
それとも――
恐ろしい想像に、頭の中が真っ白になる。
叫びだしている気もするが、そんな感覚は一切ない。
何だ、これは。
いったいおれはどうしたら――
その時間がいったいどれだけだったのか、おれには見当もつかない。
しかし、突如、何の前触れもなくおれの感覚は手元に戻ってきた。
それまで消失していたのが嘘のように目の前が真っ青な空に染まり、全身が風を切っているのを感じる。
「るーく!」
フェネクスの声ではっとした。
気づけばおれはフェネクスの背で横になっていた。
落としてしまったのか、右手のショートソードは無くなってしまっている。
「ありがとう、フェネクス。助けてくれたんだね」
炎の翼を持つ巨鳥の撫で、周囲を確認した。
フェリスはいったいどうしたんだ?
どうしておれの感覚が戻ってきたんだ?
見渡したおれの目に飛び込んできたのは、くるくると落下していくフェリスの姿だった。
「フェリス!」
全く動かないところをみると、どうやら意識がないらしい。
意識を失った事で
フェネクスがやったのかは分からないが、このままでは悪魔の加護もないまま地面に激突してしまう。
「くそっ」
おれはフェネクスの背から飛び降りていた。
「あっ るーく! あぶないよ!」
フェネクスの声を背に、おれは高らかに悪魔の名を呼んだ。
「アガレスさん!」
黒々とした魔法陣が空中で発動し、おれの金目の鷹がおれに寄りそった。
「あの猫を 助ける気か」
アガレスさんが猫、といったのはフェリスの事だろう。
「だって、あのままじゃ死んじゃう!」
そう言うと、アガレスさんは小さくため息をついたようだったが、全身に加護がいきわたるのを感じた。
「ありがとう、アガレスさん!」
その加護を全身に受けて、おれは真っ直ぐにフェリスのもとへ飛んだ。
間に合うか?!
右手を必死でフェリスに向かって伸ばす。
あと少し!
右手の指がフェリスの腕を捉えた。
力任せに引きよせ、おれは空中に急停止した。
無理をしたせいか、フェリスの腕からごきり、と鈍い音がした。関節が外れるくらいはしてしまったかもしれない。
それでもおれは、地面にたたきつけられる寸前にフェリスを救出する事に成功した。
そのままふわりと地面に着地し、フェリスを横たえた。
「……ん」
地面に置いた振動で、フェリスが目を開けた。
おれを追って地上に降りてきたフェネクスが、おれを庇うように翼を広げた。
「あーやべ、オレっち、死にかけた?」
「そうだね」
「グレイスが助けてくれたわけ?」
その問いには返答しなかった。
「あいたー。これってめちゃくちゃやりにくくね? オレっちとしたことが、グレイスに借りを作るなんてさぁ」
フェリスは天を仰いだ。
「借りなんて作るつもり、ないよ。目の前に落下していく人間がいたら助けるもんだろう?」
「そう? そうかな? そういうもんかな?」
首を傾げたフェリスだったが、先ほどまでの殺気は消失していた。
おれが無理やり引っ張った右腕がぶらりと下がっている。
やっぱり関節が外れているんだろう。
それに気づいたフェリスは、何の躊躇もなく左手でその関節を押し込んだ。
ごきり、と鈍い音が響く。
「!」
見ているだけで痛い。
が、フェリスはまるでその痛みなど感じていないかのように、眉一つ動かさなかった。
「あーあ、今日はもうやる気なくしちゃったもんね。帰ろーっと」
ぽいぽい、と両手に持っていたナイフをすべて放り投げると、フェリスはすっと立ち上がった。
やる気をなくしたおちうのは本当のようだ。フェリスから殺気が完全に消え去っていた。
おれにとっては願ってもない事だ。
「じゃーね、グレイス。オレっちはシアさんのところに帰るよ」
「あっ、ちょっと待って、フェリス」
「ん? なに?」
「さっき何で、シャックスの攻撃を途中でやめたの? 感覚を失ったおれなんて、フェリスなら一瞬で殺せただろうに……」
そう聞くと、フェリスはセルリアンの目を細めて笑った。
「だってさぁ、グレイスの感覚を共有したら、オレっちの方が参っちまったんだよ。何なの、あれ? グレイスはいつもあんな量の情報の中で生活してるの?」
ああ、そうか。
フェリスの言葉で納得がいった。
おれだって、最初は、千里眼によって受け取るの情報の多さに意識を保つのもやっとだったんだ。悪魔の力を使って感覚を奪い取ったフェリスに耐えられるはずなんてない。
「いつもじゃないけどね。たまにだよ、たまに」
「ふーん、すげえなあ。グレイスも伊達にレメゲトンじゃねぇんだなあ」
「……失礼だよ、フェリス」
頬をふくらますと、フェリスはにっと笑った。
「おかえし、おかえし。オレっちのこと聖騎士っぽくないとか最初に言ったのはグレイスじゃん?」
「そんなの忘れたよ」
「ひっでーなぁ」
けらけらと笑うフェリス。
そんなフェリスに、おれはもう一つだけ質問した。
「フェリス」
「ん?」
「もしかしておまえ……痛みに鈍感だったりする?」
なんとなくそんな予感はあった。
それは、先ほどの行動でほとんど確信に変わった。
「あっれー、おかしいな、うまく隠してたつもりだったんだけどなー」
フェリスは首を傾げた。
「それこそ隠せてないよ、フェリス」
「やっぱグレイス、失礼だぜ?」
「お互い様だよ」
そう言って笑いあった時だった。
突如、額がひどく熱くなった
「ぅあっ」
突然額を抑えてうずくまったおれに、フェリスが寄ってくる。
「どしたの? グレイス」
熱い。
額に刻まれたルシファの印が急に熱を持ち始めた。
まるで何かを訴えているかのように。
「なんだ……ルシファ……?」
いったいおれに何を伝えようとしているんだ……?
「なぁ。グレイス」
フェリスの気配を近くに感じる。
ヒトの気配と、二つのコインの悪魔の気配。
しかし、次の瞬間にはそれと別の気配を感じた。
はっと顔を上げる。
「グレイス?」
不思議そうにおれを覗き込んだフェリスのセルリアンブルー。
その向こうに、おれは信じられない影を見た。
フェネクスが、アガレスさんが一気に警戒したのが伝わってきた。
額の紋章が焼けるように熱い。
――会いたかった
心の底から焦がれる感情がわき上がる。
「……うそ、だろ……?」
おれの喉からそんな呟きがもれた。
首を傾げて振り向いたフェリスも、驚いた表情を見せた。
その視線の先にいたのは――
「ティファレトじゃん。いったいどうしたんだ?」
青みがかった銀髪、覗き込む事を赦さない深い群青の瞳。芸術家が丹精込めて創った彫像のように整った顔。
忘れるはずがない。
忘れる事なんてできない。
一瞬で、おれの内をさまざまな感情が駆け巡った。
嘘だ、という気持ちと、会えて嬉しい、という感情がかきまぜられて声が出なかった。
何しろ、目の前に現れたのは、戦争の時におれが加護を奪ったはずの神官の姿だったんだから――