SECT.23 フェネクス
国境に横たわる壁がすぐ近くに見える。
この一枚を越えるのに苦労したのはつい先日の事だった。
「フェリスはおれのこと、セフィロト国に報告しなかったんだな」
「んー? だってオレっち、契約で忙しかったし」
悪魔との契約。
「どうやって契約したの? おれの時はじぃさまが魔法陣をかいてくれたけど、セフィロト国にはそんなヒト、いないだろう?」
「いや、いるよ。魔法陣が描けるヤツ」
事もなげに言ったフェリス。
「え、誰?」
「悪魔の国から来たメガネのおっちゃん」
「ごめん、フェリス。ぜんぜんわかんない」
「あー、えーとなぁ……」
首をひねるフェリスは、どうやらおれと同じでヒトの名前を覚えるのが苦手らしい。
「あ、そうそう。メイザースだ。サミュエル=L=メイザース。もともと悪魔の国でレメゲトンしてたって聞いたけど?」
「メイザースさん?!」
サミュエル=メイザース侯爵。旧グリモワール王国のレメゲトンの一人で、戦線に立つ役ではなく、王都の書庫に籠るのが仕事の情報戦担当だった。同じレメゲトンではあったのだが、戦線に立っていたおれはほとんど会った事がない。
確か、メガネをかけた優しそうな人だった気がする。
どうしてそのヒトがセフィロト国に?
愕然としたおれを見て、フェリスが笑う。
不意をついて飛んできたナイフを、間一髪、ショートソードでたたき落とした。
フェリスの攻撃には予備動作が全くない。
「メガネのおっちゃんは本さえ読めればどこでもいいらしいよ?」
おれの疑問に答えたフェリスは、その瞬間、一気におれとの間合いを詰めた。
疾い!
下から切り上げてきた細身のナイフを、炎を纏った手で弾いた。
じゅう、と鈍い音がしてナイフの先が蒸発した。
「ぅお、溶けた?!」
「フラウロスさんの炎だからねっ」
溶けてしまったナイフをすべて放り投げ、フェリスは素手で向かってきた。
人間にはあり得ない速度で拳が飛んでくる。
半端な速度なら拳を掴んで逆に引っ張りこんでやるのだが、それどころではない。
おれの動体視力でも、目視して避けるのがやっとだった。
鋭い手刀が頬すれすれを掠めていった。
焼けるような痛みと共に、皮が裂ける感覚があった。
「信じらんねぇー! この速さで避けるなよっ!」
次々繰り出される攻撃を避けまくるおれに、フェリスはさらに怒涛の攻撃を仕掛ける。
逃げる暇など与えてはくれなさそうだ。
「フラウロスさんっ!」
おれの号令で、灼熱の獣はフェリスの背後から襲いかかった。
気づいたフェリスは体を反転し、その腹に神速の殴打を叩き込む。
フォラスさんに強化されたその攻撃は、完全体のフラウロスさんを吹っ飛ばした。
その隙におれはフェリスと距離をとる。
この短い間に息が乱されていた。
全力の戦闘はいつぶりだろう。
闘いたいと願った事などないけれど、戦闘の中に身を置くと高揚する自分を抑えられなくなってしまいそうな事があるのも否めない事実だった。
でも、いまはそれどころじゃない。
「ごめん、フェリス。いまはお前の相手をしてる場合じゃないんだ」
右手の包帯の端を口でくわえ、するする、と解いていった。
そこに刻まれた5つの悪魔紋章。
召喚したアガレスさんとフラウロスさんの紋章は、すでに鈍い漆黒に輝いていた。
「うっわーすげえ!」
紋章だらけのおれの右腕を見て、フェリスが肩をすくめる。
「グレイスはいったい何人と契約してるわけ?」
「……7人」
おれは、高らかに悪魔の名を呼んだ。
「フェネクス!」
黒々とした魔法陣が発動し、さらに一体の悪魔が姿を現した。
甲高い鳴き声が周囲に響き渡る。
晴れた空に深紅の翼が翻った。
「あつい! あつい! あついっ! やめろ フラウロス! 死ね! 魔界にかえれ! このバカ!」
炎のような翼をもつ巨大な鳥が、見た目にそぐわない少年の甲高い声でぎゃあぎゃあとわめいた。
不死鳥とも呼ばれる第37番目の悪魔、フェネクス。燃えるような羽根の中に、金色の瞳が輝いていた。
「帰れ フェネクス」
フラウロスさんも負けじとフェネクスに悪態をつく。
地には灼熱の獣フラウロス、空に不死鳥フェネクス。
相性の悪い炎の悪魔同士が睨みあった。
「うわぁ! フェネクス! すっげ! フラウロスとフェネクスだ! すっげえええ!」
フェリスは感動しっぱなしだ。
「フェネクス! フラウロスさんと喧嘩しないで! おれだって熱いの我慢してんだから! フラウロスさんもフェネクスに向かって炎あげないで!」
アガレスさんの加護がなければ、この場に立っていることなんて不可能だ。
フォラスさんの加護を受けているとはいえ、フェリスもさすがに熱かったのだろう。腕で額の汗をぬぐっていた。
「まだ他にもいるんだろー? ほら、もっとたくさん紋章あるじゃん」
嬉しそうに俺の方に寄ってきた。
フラウロスさんとフェネクスによって出来た炎の渦の中を、何事もないかのように歩いてくる。
その平然とした様子に、狂気を感じる。
フェリスはきっと、快楽を求めてヒトを殺す人間だ。
「来るな、フェリス」
思わずショートソードを突き付けた。
友達になれるかなって思ったのに。
「フラウロスさん!」
再び名を呼ぶと、フェネクスとけん制し合っていたフラウロスさんはばっとこちらへ駆けてきた。
そのままフェリスを炎の渦に包みこむ。
フォラスさんの加護があれば、フェリスが死んだりすることはないだろう。
「フェネクス、こっち!」
ショートソードを鞘におさめ、天高く右手を掲げると、フェネクスはまっすぐにおれのもとへ降りてくる。
地面すれすれを飛行したフェネクスの背に飛び乗った。
「お願いフェネクス、このまま街の反対側まで行って」
「りょーかいだよ るーくっ」
かわいらしい声で返事をしたフェネクスは、すぐに高度を上げた。
フォラスさんに空を飛ぶ能力はないはずだ。
眼下に、フラウロスさんの炎を確認する。
この高さなら大丈夫だろう。
「フラウロスさん、ありがとう! もうだいじょうぶだよ!」
そう叫ぶと、フラウロスさんの炎が消えた。
魔界へ帰ったのだ。
はるか下に、フェリスがこちらを見上げているのが見えた。
怪我はしていないようだ。
ほっとして全身の力を抜いた。
このまま逃げよう。遠くまで、ここから西に見えるあの場所へ行ってもいい。フェリスを完全にまいてからルゥナーたちのもとへ戻ればいい――と、そこまで考えてはっとした。
まさかフェリスはまたシドを傷つけたりしないか?
一緒にいるルゥナーは? アウラは?
さっと血の気が引いた。
再び地上に視線を戻す。
が、そこにフェリスの姿はなかった。
「いったいどこに?!」
猫のような細身のセルリアンの瞳をした青年の姿を探してきょろきょろするおれの背後から、突如、声がした。
「油断しちゃだめだよー、グレイス」
ぞわりと全身の毛が逆立つ。
考えるより先に抜刀し、刃を横に薙いでいた。
きぃん、と金属音が響く。
同時に首筋に痛みが走った。
「ああもう、動かないでよ。もうちょっとだったのに」
振り返った俺の目に飛び込んできたのは、片翼の悪魔――紫の翼を一枚だけ背に広げたフェリスの姿だった。
一瞬遅ければ頸動脈をやられていた。
首の傷を確認してぞっとする。
「……飛べたんだ」
「オレっちが契約したのはフォラスだけじゃないからね」
空から逃げる事は不可能。
フェネクスの背から飛び降り、アガレスさんの加護を解いた。
同時に、フェネクスの纏った炎がおれに吸い込まれるように消える。
全身に不死鳥の加護がいきわたるのを確認し、フェリスと向かい合うように空に浮いた。おれの背には炎の翼が広がった。
「おれはもう充分なんだけど」
「だめだめ、逃げるなんてオレっちは許さないよ」
首を横に振ったフェリスを見て、おれは覚悟を決めた。
「今日はおれ、素手じゃないよ?」
「いいよ、オレっちは今日、武器も悪魔も使うから」
平等に、とでも言いたげに。
「後悔するなよ、フェリス」
「それはオレっちの台詞だもんね」
フェリスは、猫のような目をきゅっと細めて笑った。
「第二回戦のはじまりだ」