SECT.22 フォラス
モーリが帰ってくるのが待ち遠しくて、シドの病室の窓から外を眺めていた。
「遅いなあ……」
「さすがにまだかかるわよ」
シドとおれが勝手に抜け出さないよう見張るためなのか、ルゥナーもずっと一緒にいた。
ベッド脇の椅子に座ったルゥナーはケルト地方の民族衣装に細かい刺繍をしているようだ。視線を落として器用に針を動かしていた。
シドはベッドに横たわって目を閉じていた。
眠ってはいないと思うけれど、はやく回復しようとしているのだろう。
おれも邪魔をしないように静かに待つ事にした。
出窓に頬づえをついて、ぼんやりと街を見渡す。
ここは二階だから、必然的に細長く伸びる道を見下ろす事になるのだが、昼間だというのに人通りが少ないのに驚いた。この街、アクリスはおそらく、かつておれが暮らしていたカトランジェとそれほど変わらない大きさだろう。
でも、店がひっそりと商売をしているせいなのか、どことなく静かな印象を受けた。
昨日見たあの大きな街は、いったいどんな場所なんだろう。そしておれが千里眼で見ている事に気づいたという軍神アレスは、いったいどんなヒトなんだろう。
ヤコブの言い方からして、敵対関係になりそうな雰囲気だったけれど、おれは争う気なんてない。
でも、もし絶対にアレイさんを返さないって言われたら、おれはいったいどうするんだろう。
戦争でセフィロト国に捉えられたライディーンを救出するためにディファンクタス牢獄を破った時のように、また争いを起こしてしまうんだろうか――?
分からない。
胸の中をぐるぐると不穏な感情が回っていた。
「どうしたの、暗い顔して」
気がつくと、刺繍をしていたはずのルゥナーがすぐそばまでやってきていた。
「うん、あのね、軍神アレスと争わずに済めばいいな、と思って」
それを聞いて、ルゥナーははっとした顔をした。
「……グレイスは本当にすごいわね。たまにびっくりするわ」
「何が?」
「だって、私ならきっとこんな状況で争わずに済めば、なんて考えられないもの。もし誰かが、たとえばモーリを攫っていったとしたら、相手を殴り飛ばしてでも取り返そうと思うわ」
「だってまだ会ったこともない相手なんだよ、どうなるかなんて分かんないよ」
「そうよね」
優しく笑ったルゥナーは、おれの見ていた窓の外に目を向けた。
つられておれも外をみる。
「あら、珍しい。野良犬かしら?」
人気のない道には、いつの間にか一匹の犬が立っていた。
すらりとした体型とつやつやな毛並み。とても野良とは思えない。立派な茶色のコリー犬だった。
「あれ……?」
その犬から、不思議な気配がする。
よく知っているその気配は、おれの持つコインやヤコブから感じる気配と一緒だった。
見れば、その犬の額にはきらきらと光る大きな青の宝石が埋め込まれていた。
その立派なコリー犬は、すっとおれを見上げた。
まるで、こっちへ来いと誘うように。
「賢そうな犬ね。まるで話しかけてくるみたい」
ルゥナーが感心している。
当たり前だ。
だって、あいつはおそらく――
「ごめん、ルゥナー。ちょっとおれ、あいつに用があるんだ」
ぱっと窓枠に手をかけ、出窓に飛び乗った。
同時に窓を開け放つと、外から強い風が入り込んできた。
あの犬はまだ、おれを見ている。
風に目を細めたルゥナーがおれを止める前に、おれは窓から飛び降りた。
ルゥナーの叫びを背に、ざっと道に着地したとたん、コリー犬は弾かれるように走り出した。
速い!
おれは思わず悪魔の名を呼んでいた。
「アガレスさん!」
金目の鷹がばさりと翼をはためかせ、おれは人間にはあり得ない速度でアクリスの街を駆け抜けた。
何で?
何で、あいつから悪魔の気配がするんだ?
コリー犬のふさふさした尻尾を追って、細い道をかけていく。視界の両端を白い壁が飛び退っていく。
文字通り矢のように駆けていくコリー犬が速度を緩める気配はない。
「待てよ!」
人間の言葉は分かるはずだから、おれの言葉だって分かるはずなのに、全く足を止めようとはしなかった。
「くそっ……」
街を駆け抜け、連綿と続く国境の壁にそってさらに走っていった。
いったいあいつは、おれをどこへ連れて行こうとしているんだ?
「はい、すとーっぷ」
その瞬間、目の前を人影が横切った。
コリー犬を追うのに必死だったおれは、必然的に転がる様にしてとまるしかなかった。
地面を転がり、ばっと顔を上げたおれの目に飛び込んできたのは。
「よーお、グレイス。今日もかーわいいねぇ」
金髪に黒ニット帽、へらへらとした笑みをたたえた青年が立っていた。
「フェリス――?!」
おれを先導するように走っていたコリー犬がフェリスに寄りそう。
「ありがとなー、フォラス」
すり寄ってきた犬を抱きかかえるように撫でるフェリス。
その犬からは、人間界のモノではないものの気配がするのに。
「フェリス、お前、その犬」
「へへ、いいっしょ? オレっちの新しい相棒」
犬から離れて立ちあがったフェリスの首に、見慣れた金色を放つペンダントが下がっていた。
何で?
何でフェリスが?
「第31番目のコインの悪魔、フォラスだっ」
その言葉に愕然とした。
「なんで? フェリス、お前はセフィロト国の人間じゃなかったのか? なんで悪魔と契約してんだ……?」
「へっへー、びっくりしただろ!」
嬉しそうに笑うフェリスの首には、確かに見慣れた悪魔のコインが揺れている。
それも、二つ。
一つは第31番目の悪魔フォラスだとして、もう一つは?
「オレっち、悪魔を召喚したアレイスター=クロウリーに瞬殺されちまってさぁ、シアさんが不憫に思って、悪魔の国から見つけてきたコインをくれたんだ」
「……!」
確かにロストコインの中には、国外へ流出したものも多い。
しかし、セフィロト国は悪魔を毛嫌いしている。特に、天使を召喚する神官たちはコインを見つければ即破壊するものだと思っていた。
それなのに、コインを保管していた。
それどころかフェリスは悪魔と契約している。
全身が震えた。
金目の鷹がふわりとおれの肩に降りてきた。
「アガレスさん、フォラスさんって、どんなヒト?」
「フォラス 疾風の速度の拳を振るう 強き肉体の拳闘士 用心せよ 召喚者の身体能力を 極限にまで高めるだろう」
それを聞いてフェリスはセルリアンの瞳をキラキラさせて楽しそうに笑った。
「正解っ! フォラスは強いんだぜー!」
ふさふさの尻尾を振ったコリー犬は、空気に溶けるように消えた。
その気配はフェリスを包み込む。
ぞわり、と背中を悪寒が貫いた。
「……やっぱりフェリスは、おれの敵なの?」
「んー、そーだね。シアさんがグレイスの事を殺してほしいと思ってるなら、オレっちはそうするだろうから」
首を傾げながら、フェリスは両手にナイフをずらりと並べた。
「やっぱ、敵かな」
その瞬間に放たれる殺気。
「……っ」
動かない左手を庇って、思わず右手でショートソードを抜きはなっていた。
フェリスは敵じゃないから――そう言って、剣を収めたのは数日前の出来事だったのに。
「ごめんねー、グレイス」
辺りにヒトがいないのは幸いなのか。
おれはどうにかしてこの場を離れる事を考えていた。
悪魔の加護がない状態でも強かったフェリスだ。片手しか動かない今のおれでは、フェリスを戦闘不能にすることは出来ないだろうから。
「フラウロスさん!」
ごう、とおれの周囲を炎が取り巻いた。
蒼炎にまで昇華した灼熱の炎に巻かれ、周囲の景色が陽炎に揺れた。
現れたのは、地獄の業火を操る悪魔、第64番目フラウロス。灼熱の毛並みをした獣は、天に向かって高らかに吠えた。
アガレスさんもフラウロスさんも、おれが戦争前から契約している悪魔だった。それゆえ、二人の力を借りて闘う事には慣れていた。
「うわ! フラウロスじゃん! すっげえ! カッコいい! 初めて見た!」
「そりゃフラウロスさんはカッコイイよ。それに、強いしね」
「いいなー」
「ダメだよ、フラウロスさんはおれと契約してるんだ」
最初はコインの契約で、次は紋章契約で。
戦場で天使のカマエルさんを吸収してからもまだ一緒にいてくれる。
アガレスさんの加護が全身をめぐっているからここに立っていられるけれど、そうじゃなかったらとてもフラウロスさんの発する熱には耐えられない。
「フォラス」
地獄の底から響くようなフラウロスさんの声。
「天界に 加担する 倒す」
相変わらずのカタコトだったが、どうやらフォラスさんがセフィロト国のフェリスと契約した事を怒っているらしいことは分かった。
おれもフェリスに視線を戻した。
「へへ、グレイスもやる気だねぇ、オレっちだって負けないよ!」
にぃ、と笑ったフェリスは、とんとん、とその場でステップを踏んだ。
来る。
おれは、右手のショートソードを強く握った。