SECT.21 老師父
この街から移動するのはモーリが視察から帰ってきてから、とみんなで決めた。
その日の夜、おれはこっそりと病室を抜け出した。
夏が近づいてきている外の空気は、ひやりとしたが寒くはなかった。空を見上げれば、夏の星座が輝いていた。
さそり座のアンタレスは東の空に。しし座のレグルスは西の空に。
それを指でなぞる様に手を伸ばし、つないでいく。
「眠れねぇのか?」
背後から突然声がした。
はっとして振り返ると、そこに立っていたのは……天使だった。
「ヤコブ」
天使の翼が4枚、夜空に浮かび上がっていた。
金色の髪がふわりと風になびいて、深紅の瞳がちらりと覗いた。
美しい天使は、おれに向かって手を差し出した。
「どうせ見るために外に来たんだろうが」
「ヤコブは本当にすごいね」
肩をすくめて差し出された手をとると、天使はふわりと翼をはためかせ、空へと飛びあがった。
そのまま、病院のある建物の上まであがると、おれをその屋上に下ろした。
リュケイオン特有の小さな窓がはめ込まれた白い積み木の街が、寄せ集まる様に遠くへ続いているのが見えた。所々、窓から漏れる明かりはまるで夜空の星のようだった。
おれはゆるく包帯を巻いただけの右手を空にかざした。
「アガレスさん」
右手に刻まれた紋章が熱くなり、ばさりと翼の音がした。
金の目をした鷹が爪を立てないよう優しくおれの肩に降りてきた。翼が頬を撫でて、くすぐったくてくすりと笑った。
「久しいな 幼き娘」
鷹からしゃがれた声が漏れる。
「うん、やっとセフィロト国を抜けたんだ。ずっと呼んであげられなくてごめんね」
それに応えるように、鷹は鼻先をすりよせた。
懐かしい悪魔の気配に、ほっとした。
悪魔を召喚すれば居場所がばれてしまうため、セフィロト国を横断する間はずっと隠してきたのだった。
「炎妖玉の子は 捕われたようだな」
「うん、いまから助けに行くんだ。アガレスさんも手伝ってくれる?」
「無論」
「ありがとう!」
やっぱりおれは、ヒトに恵まれていると思う。
ヒトだけじゃなく、ヒトじゃない存在にもとても恵まれている。
「そうだ! ヤコブが手伝ってくれるって言ってくれたんだよ!」
ヤコブを示すと、金目の鷹はぶるる、と首を振った。
「ウリエル 人間になったという噂は 本当だったか」
「お久しぶり、老師父。傷の具合は如何かな?」
「お前を見ると 盲いた目が 痛む」
「それは大変だ」
肩を揺らして笑ったヤコブは、金目の鷹に深々と頭を下げた。
「すまなかった。あの時はああするしかなかった。そうでなければエリヤが老師父を殺していただろうからな」
「ふふ 恨んではおらんよ」
金目の鷹は、ふわりとおれの肩を離れ、空で鋭く一回転した。
瞬きするような刹那、その場に立っていたのはシルクハットの老紳士だった。
「お主まで この幼き娘に 加担するか」
「……俺様はリュシフェルに借りがあるからな」
ヤコブはぽん、とおれの頭に手を置いて柔らかに微笑んだ。
「さて 幼き娘 我を呼んだのは ウリエルとひき会わせる為では なかろう」
アガレスさんは高貴な笑みを口元にたたえた。
「うん。少しだけでいいんだけど、西の方にある軍神アレスの居城が見たくて」
「千里眼、か」
ヤコブが呟いた。
「幼き娘は 古の黄金獅子と 同等の能力を 有しておるよ 無論 お主にも比肩する」
「俺様はもうだめだ。人間界に来てから、能力はほとんどなくなっちまった。いま老師父と戦ったら、確実に俺様の負けだ」
ヤコブは肩をすくめた。
「あれ、でもヤコブはサンダルフォンを追い払ったって……」
「サンダルフォンは理由あって俺様に頭があがんねーのさ」
「そうなの?」
驚いて見せると、ヤコブは楽しそうに笑った。
「お前は素直だな。黄金獅子とは大違いだ」
「黄金獅子っておれのご先祖様の事だよね」
「ああ、そうさ。ヤツは強かった。本来ならヤツが柱になる予定だったんだぜ?」
「柱……」
悪魔が、天使が、何度も口にする『柱』。
ヤコブもきっと、聞いたってその意味は教えてくれないんだろう。
世界の理。柱。分かたれた世界。
おれには分からないことだらけだ。
分からなかったから、アレイさんと二人、ここまでやってきたんだけれど。
「当時の グリモワール王国にとって 黄金獅子が消える事は 考えられぬ 黄金獅子は 魔界の王と契約し グリフィスの血脈に枷をかけた」
アガレスさんがヤコブの言葉を引き継いだ。
「我は 幼き娘と 炎妖玉の子を 擁護する 無論 マルコシアスも クローセルも フラウロスでさえ」
「はは、フラウロスを手に入れたか」
「フラウロスさんは今でもおれの言う事を全然聞かないよ……アガレスさんもだけどね」
口を尖らせると、ヤコブは笑った。
「契約印を見てもいいか?」
いいよ、と右手を差し出した。
ヤコブは右手に巻かれた包帯をするすると解いていく。
「老師父とフラウロス、それにフェネクスにアイム……はは、分かりやすく炎系だな。黄金獅子の血筋らしい」
「グリフィスは炎 クロウリーは風 ファウストは水 長い間 それぞれが 守ってきた」
「へぇー」
アガレスさんは物知りだ。
ヤコブもきっといろんな事を知っているんだろう。
孤高の伝道師ウリエル。
このヒトはどうしてリュケイオンの片隅で神父になったんだろう。なぜ、凄まじい力を持つ天使でありながら人間の中で暮らしているのだろう。
ふと気になって、質問が口をついていた。
「ウリエル、どうしてウリエルは人間界にきたの?」
「だからその名を呼ぶなって言っただろ」
とん、と額のリュシフェルの印をついて。
右手の包帯を巻きなおしたヤコブは背の翼を広げた。
「明日にはここを発つんだからな、しっかり寝とけよ?」
「うん、ありがとう」
そのまま飛び立っていった天使を見送って。
「よし、じゃあ久しぶりだけど、力を貸してね、アガレスさん」
星から方向を決めて、西の方角に狙いを定めた。
アガレスさんの力が全身に満ちる。
神経を集中させると、視覚が、聴覚が、触覚がみるみる鋭敏になっていった。
――千里眼
もともと鋭いおれの感覚は、悪魔の力を借りて人知を越えたものになる。
おれの体はここにありながら、ずっと遠くの街に感覚が飛んでいた。
西の地平線に、大きな街があった。この街アクリスと同じように、白く四角い積み木を積んだような、きゅっと寄せ集まった都市だ。しかし、その規模はアクリスの比ではないだろう。
そしてその街の中央には、見た事のない形の建物が構えていた。
何だろう?
平たい円柱状の建物だが、大きな柱がぐるりとそれを取り囲むように支えている。夜だから分かりづらいけれど、あれはきっとこの街の建物を創る白い壁と同じ素材だ。
天井部分はよく見えない。
居城というよりは、グリモワール王国にあった闘技場に似ている気がした。
柱に支えられた上部には、見張り塔のような建物が幾つも伸びている。
その小さな窓から中に見えるのは――
窓の中を覗こうとしたその瞬間、バチン、と大きな音がした。
「うわぁっ!」
弾かれるようにして目をそらした。
頭ががんがんする。
「アレスに 気づかれたな」
アガレスさんが淡々と言う。
「気づかれた? この距離で?」
ヤコブの話によると、あの街までは歩きで丸一日かかる距離なのだ。
「用心せよ 幼き娘」
いつものように唐突に、アガレスさんはかすむ様に消えた。
「……軍神アレス」
いったいどんなヒトなんだろう。
アレイさんを支配下に置いた、とヤコブは言った。
いったいどうやって?
助けるって言ったけど、おれはちゃんとアレイさんに会えるんだろうか?
「……だいじょうぶ」
みんながついてるから。
「待ってて」
もう一度だけ、はるか西にいる彼に呼びかけて。
おれは決意を手にした。