SECT.18 ウリエル
次の日、約束通りおれはアウラに紹介してもらった教会へと向かっていた。
シドはついていく、と言い張ったが、さすがにそれは止めた。今動いたら、治る傷も治らなくなってしまう。
初めてテントの片隅で出会った時の無口な印象はいったいどこへ行ってしまったのか。顔の半分を藍色の長い前髪で隠し、フェリスに対してもつっけんどんな態度だったのに。
不思議だなあ。
おれに会って、まるでシドの中に眠っていた何かが目覚めたみたいだ。
いや、きっともともと彼にはそんな素質があったんだろう。何しろ、彼は漆黒星騎士団員なんだから。
ところが、おれの隣を歩くルゥナーは奇麗な眉を寄せて怒っていた。
「もう、シドにしてもグレイスにしても、自分をもっと大切にしなくちゃだめよ! まったく」
ルゥナーはそれがどうしても気に入らないようだった。
無理しているつもりはないんだけれど。
本気で無理をする気なら、アレイさんのメッセージもルゥナーの制止もシドの言葉も全部振り切って、何もかもを捨ててもアレイさんの後を追っていただろう。
でも、おれはまだここにいる。
アレイさんは絶対に死なないって言ったから、それを信じている。
「ルゥナー、その、神父さんってどんなヒトなの?」
「んー、とにかく、変わり者、っていうのは誰に聞いても言うわね」
「変わり者?」
「まあ、あまり物事に頓着しないらしいわ。少なくとも、神父らしくはないみたいね」
「へえー。楽しみだね!」
そう言うと、ルゥナーはそうね、と笑った。
国境に最も近い街、アクリス。
ここからはセフィロト国の築いた国境の壁が連綿と続いているのが見える。
たった壁一枚、それだけなのに、ここは異国だった。
もともとグリモワール王国はセフィロト国から独立した。そのため、二つの国の文化はとても似通っている。天使と悪魔のように相対するものを信仰したのも必然だったのかもしれない。
しかし、リュケイオンはディアブル大陸で唯一の民主主義国、それも、グリモワール王国と反対側、ディアブル大陸東岸に面している。接してはいるものの、離れた地点でそれぞれが文明を発展させてきたのだ。
街の雰囲気がまず違う。
セフィロト国側では灰色の石畳を敷き詰めた道を挟んで、クリーム色の壁に派手な色の屋根をした家が立ち並んでいた。どこか重そうな雰囲気を与えていたのだが、リュケイオンの街は白い。
窓が小さく、真っ白な壁をした四角い家がまるで積み木を重ねるように並んでいる。横に、上に、下に、所狭しと住居が立ち並んでいた。
セフィロト国のようなメインストリートはなく、全体的に道幅の狭い細い路地が方々に伸びていた。店も看板を出していたり出していなかったり、セフィロト国では当たり前のように見られた毎朝の市が信じられないくらいだった。
何より、あまり嗅いだ事のない匂いが漂ってくる。
「ねえ、ルゥナー。さっきからさ、不思議な匂いがするよ」
そう言うと、ルゥナーはにこりと笑って答えてくれた。
「ああ、それはきっと、お香の匂いよ」
「お香?」
「ええ。リュケイオンでは、子供が生まれた時、死者を送る時、誰かが結婚する時、お祝い事があった時、とても香りのいい木を焚く習慣があるのよ」
「へぇー」
すぅっと吸い込んでみると、とても落ち着く香りだった。
「他の国、特に海の向こうへ広まって、今ではヴェーダ国やクルアーン国のものが有名になっているけれど」
「ルゥナーはいろんな事を知ってるんだね。いろんな国に行ったから?」
「ええ、そうよ。リュケイオンに来るのも二回目だもの。二年ほど前かしら、ケルトからリュケイオンに来たのは」
懐かしそうな目で辺りを見渡したルゥナーは、何かに気づいて進行方向を指さした。
「ほら、きっとあれだわ。変わった神父さんがいらっしゃるっていう教会」
ルゥナーの指した方向を見ると、リュケイオンの街に似合わない、大きな十字架をいただいた協会がそこに佇んでいた。
真っ白なリュケイオンの町並みの中に突然現れたセフィロト国様式の建物はとても異様だった。
正面にステンドグラスが構え、屋根の上には大きな十字架。
「行ってみましょう」
ルゥナーが茶色の木の扉に手をかけ、重そうにぎしりと開いた。
「こんにちは」
「おじゃましまーす」
中はとても明るかった。
セフィロト国にある教会と同じ、3人掛けの茶色い椅子がずらりと並んでいて、その正面にはミカエルさんの像があった。
と、その瞬間、ちりりと何かが感覚に触れた。
「……この感覚は」
心臓がどくん、とひとつ脈打った。
とてもよく知る感覚だった。
まさか、でも、そんな……嘘だろう?
「あー、やっぱ来たか。能力なんぞだいぶ失くしたと思ってたんだがなぁ」
並んだ椅子の最前列に、目の覚めるような美しい金髪が揺れていた。
そこから漏れ出るのは、『人ならざる気配』。
「ルゥナー、下がって」
おれはこの気配をよく知っている。
「俺様はもう引退してぇんだヨ、なぁ――」
金髪のヒトが立ちあがった。
声のトーンからしてそれほどの歳ではないと思っていたが、案の定、振り返った男性は年若い青年の姿をしていた。
「リュシフェル」
そのヒトがおれの中にいる悪魔の名を呼んだ瞬間、額が熱くなった。
「……誰?」
ルゥナーを背に庇いながら、おれはその青年に尋ねた。
長い前髪が顔を隠している。
時折ちらりと覗く瞳は真っ赤で、口元には笑みを湛えていた。ミカエルさんの純白の像を背景に立つにはふさわしくない、漆黒の神官服を纏い、手には大きな本を持っている。
「誰、って聞くワリにはきっちり警戒してんじゃねーか、黄金獅子の末裔」
「だっておまえ……」
信じられなかった。
だってここは人間の世界だ。しかも、セフィロト国というわけでもない。
なのに、この目の前の青年から発せられている気配は――
「天使、だろう?」
そう言うと、その青年は長い前髪の間から真っ赤な目を覗かせて、にぃ、と裂けるように笑った。
「正解だ、黄金獅子の末裔。ダテに柱候補ってわけじゃねぇか」
敵意は全く感じられない。
しかし、好意も感じられなかった。
「あなたがアウラの言った『変わった神父さん』?」
「アウラに会った? 怪我でもしてんのか?」
「おれの友達が怪我してアウラのところにいるんだ」
このヒトは敵? それとも味方?
「そう経過すんな、黄金獅子の末裔。俺様はお前の敵じゃねぇよ。ま、味方でもねぇけどな」
そう言って、黒い神官服を着た天使はにっと笑った。
礼拝堂の脇に造り付けられている小さな部屋に通されたおれとルゥナーの前に、暖かい飲み物が置かれた。
先ほどから街に漂っているのと同じ、不思議な香りのする飲み物だった。
「ありがと」
「いーえ」
向かいの席で、同じ飲み物を口に運んでいる天使は、事もなげに答えた。
長い前髪に隠れて見えづらいが、とても奇麗な顔をしている。
「なんで天使さんがこんなところにいるの?」
「それは長くなるからナシ」
即答。
「じゃあ、名前は?」
「俺様に名乗らせる前にお前が名乗りやがれ」
う、確かにその通りだ。
おれはふぅ、と息を吐いた。
天使さん相手に嘘をついても仕方がないだろう。
「おれはラック=グリフィス。グリモワール王国のレメゲトンだ」
「まあ、そんな事知ってるけどな」
「ならわざわざ聞くなよ!」
「お前の事なら何でも知ってるぜ? 何しろ有名人だからな、お前は」
「……」
口を噤んだおれを見て、天使さんは言った。
「俺様はヤコブ=ファヌエル。そうだな、天使としての名ってのなら……」
ふわり、と背に翼が広がった。
大きな4枚の翼が部屋いっぱいに広がった。
「ウリエル、だ」