SECT.16 悔恨
「とても聖騎士の成す事とは思えません。もし貴方がグリモワール王国の騎士だったならば、そんな所業は絶対に許されないでしょう」
ひやりとした敵意を込めた声でシドが告げた。
それを聞いた聖騎士の眉が跳ね上がる。
「聖騎士を愚弄するのか」
「愚弄しているわけではありません。ただ、事実を述べたまでです」
淡々と、しかし怒りを抑えて告げるシドの迫力に聖騎士が気圧された。
「貴様、グリモワール出身だな」
「そうです。しかし、私が本質的に言いたいのはセフィロト国とグリモワール王国を比較する事じゃない。国に仕える聖騎士が、国家神官が負わせた怪我を確認して、わざわざ女性の傷を抉るような行為が人道的でないという事です」
そう言われて、聖騎士はぐっと詰まった。
確かにそうだという思いはあったのだろう。
握っていたおれの手をぱっと話した。
凄まじく痛んだが、それよりも解放された事にほっとした。
「何なら、私の怪我を確認してくれてもいいでしょう。代わりに、彼女の傷を曝すようなマネだけはしないでください」
そう言いながらシドは、自らの服を割いてきつく包帯の巻かれた腹部を曝した。
先ほど巻いたばかりのその包帯には、また新たな血がじわりと滲みだしていた。
「シド、また傷が開いて……」
相手も騎士だ。それを見ただけで傷の深さが分かったのだろう。
その重症の相手が自分を押しているという事実に、一歩退いていた。
「……確かに、その女が怪我をしているのは本当のようだ。その怪我の原因がこちらにあるのも事実。それをわざわざ曝すようなまねはすまい」
シドの額には大粒の汗が浮いていた。
やはり、かなり無理をしているようだ。
おれを庇うように伸ばされた手も小刻みに震えている。
「お引き取りください」
「怪我人相手に失礼した。ただ、こちらも先日の広場での事件で殺気だっている時期だ。察していただけると助かる」
「それは痛み入ります。しかし、だからといって怪我人や女性にまで手ひどい行為を働くのは目に余ります」
荒い息でシドが答える。
それを見た聖騎士は不意に尋ねた。
「お前は、グリモワール王国の騎士だったのか?」
「……確かに私は、漆黒星騎士団員でした。その心は今も変わりない」
それを聞いて、聖騎士は吐き捨てるように言った。
「悪魔の国の騎士に説教を受けるようでは聖騎士の名折れだ……が、忠告は受け取っておく。感謝する」
言葉と裏腹にきつい口調だったが、それが彼の精一杯だったのだろう。
邪魔したな、とモーリに謝って、監査の聖騎士団員は出ていった。
後姿を見送って、全身の力が抜けた。
それはシドも同じだったのだろう。
それまで体を起こしていたシドがずるり、とおれの肩にもたれかかった。
「シド?」
支えようと伸ばした右手に、真っ赤な血がついた。
「……え?」
血の匂い。
全身が総毛だった。
まるで全身の血が逆流するような感覚。
「シド?」
力を失ったシドの体がおれに覆いかぶさった。
丁度、馬車が走りだすのと同時だった。
覆いかぶさった時の冷たさとか重さが、まるであの時、重傷を負って戦場で倒れたアレイさんのようで。
おれは慌ててシドをゆすった。
「シドっ、シド、しっかりしてっ」
腹の包帯には、じわりじわりと血が染み出していた。傷が開いている。
動かすのは危険だ。
ゆっくりとシドの体を座席に横たえた。
「グレイス、いま、国境を越えました。すぐに医者を探しましょう」
前の座席から投げられた、モーリの声が遠かった。
ずっと願っていた国境を越えたのに、またおれはヒトに助けられて、そのヒトを危険な目に合わせて、今も目の前で苦しませてしまっている。
その事実に打ちのめされていた。
「落ち着いて、グレイス。すぐにリュケイオンの街に入るわ」
「ありがとう、ルゥナー。」
ああ、血の匂いがする。
自分の体の痛みなどどうでもよくなっていた。
さっき乱暴に扱われた左腕ははじけ飛びそうに痛かったし、全身をめぐる血は左腕と反発して沸騰しそうなほどに熱い。
それでも、目の前で倒れたシドの方がずっと大事だった。
またじわりと涙が滲む。
いつからおれはこんなに弱くなってしまったんだろう?
「ごめんね、シド」
何度言ったか知れない言葉を再び繰り返した。
「おれと一緒にいちゃだめだよ。またこんな風に怪我するよ。おれは……おれは、シドが怪我するところなんて見たくないんだよ」
「……ミス・グリフィス」
シドの唇の間から、小さな声が漏れた。
「私が貴方に尽くすのは……私の意思です……貴方がそれを気に病む事はない」
「そんなっ」
「私はグリモワール王国の騎士です」
荒い息で、シドはきっぱりと告げた。
「貴方はレメゲトンです。悪魔の力を持っている……その戦闘力は……到底私の及ぶところではないでしょう。でも……貴方一人では乗り越えられない事もあります」
「そうだけどさ……っ」
現にいま、モーリとルゥナーがいなかったら、おれは国境線を踏むことすらできなかっただろう。
シドがいなかったら、左手の包帯をはぎ取られて、ラック=グリフィスである事が露見していたかもしれない。そのあといったい自分がどういう行動をとるのか、想像もつかなかった。
「これはきっと貴方と同じように……私が持っている悔恨なのかもしれません。あの時、戦場で何の役にも立てなかった私が、いま、レメゲトンである貴方に仕えたいと思うのは、きっと……私の我儘でしかありません」
「……」
おれの罪状を一緒に背負ってくれたシドもまた、あの戦場での無力を感じているのだ。
その痛みを誰より知っているおれだから、シドの言葉に言い返せなかった。
「もう少しだけでいい。貴方がちゃんとクロウリー伯爵と再会するまで……貴方に仕えさせてほしいのです……レメゲトン、ラック=グリフィス女爵」
懐かしい名で呼ばれ、どうしようもない感情が全身を渦巻いた。
「これは、私に与えられた……好機だと思っています。戦場での悔恨を晴らすために……リュシフェルが与えてくださった好機だと」
その言葉にぞくりとした。
何しろそれは、レメゲトンになったライディーンがおれに対して言った言葉とそっくりそのまま同じだったから。
――この騎士団に来て、お前に会えたことはリュシフェルの導きだと思っている。俺に与えられた幸運だと
当時15歳だったライディーンはそう言っておれを説得し、自身の強い意志でもってレメゲトンの地位を手に入れた。
ああ、そうだよ。あの時もおれがライディーンをレメゲトンにしたせいで、彼に酷い怪我を――
苦い思い出が蘇り、唇をかんだ。
そうか。
シドの瞳は、あの時のライディーンと一緒なんだ。
何度くじけても、また未来を見据える事の出来る強い心。
「だから、どうしても私は……」
「……もう、いいよ」
「ミス・グリフィス、私は」
だとしたら、きっとシドは大怪我をしても、つらい目にあっても、また前を見据えて進む力を持っているはずだ。
おれはきゅっと唇を引き結んだ。
大丈夫。
きっと、シドも大丈夫だ。
たくさんの人と同じように戦争で傷ついたシドにおれにしてあげられるのは、機会を与える事くらいしかない。
「いいよ……おれでいいなら、アレイさんに会うまででいいなら、シド……おれに、ついてこい」
「ミス・グリフィス!」
シドの顔がぱっと輝いた。
おれはこの選択を後悔しない。
後悔する前に、シドを傷つけるすべてのモノから彼を守ってみせる。
シドが戦場の無力を悔やんでおれを守るのなら、おれはあの時守れなかった国の代わりに、おまえだけは守ってみせる。
きっと、これでいいんだよね、アレイさん?
切望したリュケイオンの大地のどこかにいるであろう、自分の導き手に心の中で問いかけて、ようやく窓の外から流れてくる風に気づいた。
その風は、セフィロトとはどこか違う、異国の匂いがした。