SECT.15 国境監査
馬車が動き出す瞬間、シドが一瞬顔をしかめた。
「傷に響くの?」
「大丈夫です」
「ごめんね、昨日はやっぱり無理してたんだよね」
「……大丈夫です」
少し返答に間があった。
きっとものすごく辛かったはずなのに素直じゃないところが誰かを思い出させて、思わずくすりと笑った。
「ありがとう、シド。おかげでおれはまた前へ進めるよ」
この旅の先に待ち受けるものが何なのか分からなかったとしても。
「ミス・グリフィス。一つだけお聞きしてもよろしいですか」
「何?」
シドはとても小さな声で、おれに尋ねた。
「クラウド団長が秘密裏に革命軍を編成しているというのは本当ですか?」
おれは耳が言いから聞こえたけれど、きっと前の席に座っているモーリとルゥナーには聞こえなかっただろう。
「うん、本当だよ」
動けないシドの耳もとにそっと顔を近づけて、ひそひそと。
「場所は言えないけれど、サンを……ミュレク殿下を匿ってるのもクラウドさんなんだ。きっといつか、グリモワール王国を再建するために」
「……そうですか」
シドは何かを考え込むかのように一度眼を閉じた。
「私は、少しでも力になる事ができますか?」
呟くような問いに、思わず笑みがこぼれた。
「できるよ。無事に国境を越えられたら、おれはクラウドさんに連絡をとるから、その時にシドを迎えに来てもらおう」
「貴方はどうするのですか?」
「……おれとアレイさんの目的は、世界を知ることだ」
マルコシアスさんやルシファが言おうとしながら口に出せないでいる、世界の理を知るのが一番の目的だった。
また、その道中でグリモワール再建の力を手に入れること。
「だから、おれたちはまだ先へ進むよ。リュケイオンは出発地であって到着する場所じゃない」
セフィロト国を出るのは、始まりだ。
本当なら、こんなところでぐずぐずしてはいられなかった。
おれとアレイさんを信じて送り出してくれたサンやクラウドさん、それに革命軍のみんなのためにも、おれたちは魔界や悪魔の事についてもっと知る必要があった。
「……では、その旅に私が同行することは可能ですか?」
「えっ?」
おれは驚いてシドを見た。
結構大きな声を出していたんだろう。ルゥナーとモーリも不思議そうにこっちを見ていた。
再びシドに近づいて、ひそひそ声に戻す。
「それは……出来ないよ。おれたちと一緒に来たら、また危険な目に合わせてしまう」
現にいま、シドはおれたちのせいで重症を負い、今も床に伏せる状態なのに。
周りの人を傷つけないようにとすべてを置き去りに、アレイさんと二人だけでここまできたっていうのに。
子供も仲間も恩人も、すべてを置いてきた。
「私の決心はついています」
シドの声は力強かった。
「ただ、今もこんな状態でお役に立つことはできません。レメゲトンのような戦闘力もない。それでも貴方が承諾してくださるのなら」
ずる、とシドが重そうに体を起こした。
「私は貴方に忠誠を誓いましょう。地の果てまでもお供し、貴方のためにこの命を捧げます。私の剣は貴方の身を守る為にのみ存在し、私の身は貴方の望みを叶える為にのみ存在します。私の血は貴方の為にのみ流されます」
一人の主に忠誠を誓う騎士の宣言だった。
しかし、最近では行われていない古い儀式。
揺れる馬車の中で、おれの足元に跪いて。
シドはおれの右手をとった。
「すべては、貴方の為に――我が主」
手の甲への口づけは、忠誠を示す。
「お許しいただけるならば、私を貴方の盾として傍に置いてください」
「だ、だめだよ」
主従関係を築く事は出来ない、と言いかけた時、馬車ががくんと停車した。
その衝撃で、シドはぐっと表情を歪ませる。
「シド!」
「国境よ。止められたわ。気をつけて!」
ルゥナーが叫ぶ。
モーリは馬車の外へと出ていった。
おれはシドを支えるようにして座席にあげた。
「……申し訳ありません」
「いいよ、それよりも、おれに忠誠を誓うとか、そんなこと言っちゃ駄目だ。おれなん……?!」
「失礼」
叫ぼうとしたおれの口をシドが手で塞いだ。
見ると、国境監査が馬車の中を覗き込んでいるところだった。
危ない、危ない。
監査の鋭い目がこちらに向けられている。
国境を守っている聖騎士団だ。
どきりとした。
「後ろの二人は?」
後を追って馬車に戻ってきたモーリが答えた。
「劇団員です」
「他の馬車に比べてこの馬車だけ乗っている人数が極端に少ないのは?」
「後ろの二人が怪我をしているからです。二人が横になれるよう、広くスペースを取っているだけです。それにほら、歌姫を狭い馬車に放り込むわけにはいかないでしょう? 大切な商売道具なのですから」
モーリの言葉でルゥナーがにこりと微笑んだ。
歌姫の名に恥じないその容姿に、監査も納得したようだ。
「後ろの男は?」
「ですから、怪我人です。先日の、広場の騒ぎで……」
そう言われるとつらいのか、監査は口を閉じた。
「隣の金髪の女も怪我人か?」
金髪? ああ、そうか。いまおれは金髪のカツラを被ってるんだった。
「ええ。体調も悪いようなので、大事をとっています。彼女もうちの大切な花型ですから」
「ふむ」
監査は鋭い目でおれを見た。
ルゥナーのようにお愛想で笑えればいいんだけれど、おれは残念ながら楽しくもないのに笑えないんだ。
しかも、監査の視線はおれの左手に注がれている。
まずい。
「その左手は?」
「その時の怪我です」
モーリが間髪いれずに答えたが、今度は納得しなかった。
「少し見せてもらっても?」
心臓がとまりそうだ。
「いいけど……動かせないよ?」
監査の聖騎士は、失礼、と言いながら馬車の奥まで乗り込んできた。
もしかすると、おれの左手にラースのコインが埋まっている事はすでにセフィロト国に知られているのかもしれない。
隣のシドが警戒したのが分かった。
手元にいつものショートソードはなかったけれど、足元に剣が転がっていた。
おれとシドが同時に武器の位置を確認した。
こういう瞬間、たまらなく楽しくなってしまうことがある。戦闘を知る者だけに通じる、警戒の間。
聖騎士がおれの左手を掴む。
全体にずきりと痛みが走り、思わず顔をしかめた。
「やめてくださいますか、怪我をしているんです。無理をさせないでください」
シドが横から制止した。
が、聖騎士はそれを意に介さず、おれの左手をぐっと引っ張った。
ラースとマルコシアスさんの血が反発しているだけでない、つい3日前にショートソードで貫いたばかりだ。
凄まじい痛みが貫いた。
「……あぁっ」
痛みに思わず声が漏れる。
「包帯をとって確認します」
そこまでするのか?!
警戒しているのは分かるが。
しかもやばい、包帯を取られたらコインが見られて、おれがラック=グリフィスだとばれてしまう……!
どうする?
逡巡している間にも、聖騎士は包帯に手をかけている。
もうだめか、と思った時。
目の前にすっと手が伸びてきた。
隣に座っていたシドだった。
「……シド」
「やめてください。つい先日の怪我なのですよ? 動かせなくなるほどの傷を負った手を、年頃の女性に曝せというのですか?」