SECT.14 国境へ
次の日、目が覚めると、不思議なほど体が軽かった。
そっと体を起してみると、まだ倦怠感はぬぐえなかったが、動けない事はなかった。起き上がる事さえできなかった時を考えると、かなり回復したと言えるだろう。
左手は……全く動かす事が出来なかったけれど。
「心が弱ると体も弱ってしまうんだね」
いつだったか思った事を、もう一度繰り返し思う。
シドがおれの中の罪状を一緒に背負って軽くしてくれたから、体も軽くなったんだ。
「……アレイさん」
窓を見ると、朝日が輝いていた。
その向こうに、国境都市リンボを収めるパリエース家の本宅がある。
「待ってて。今行くから」
国境に連綿と横たわる壁を見据えて、再び誓いを口にした。
どうやら、おれがアレイさんと別れてルゥナーたちのもとへ走ったあの日から3日が経っているらしい。
3日前の騒ぎを、おれは何も知らなかった。
「いったい何があったの?」
そう問うと、ベッド脇に座ったルゥナーとモーリは顔を見合わせた。
どこから話したらいいか逡巡している様子だった。
「おれがアレイさんと別れたのは中央広場のテントだった。あの後、きっとサンダルフォンがあの場に来た事は間違いないと思う。おれが知りたいのは、その後なんだ」
「……私にも、詳しい事は分からないの。ただ人づてに聞いた事だから」
ルゥナーはそう前置きしてから、ゆっくりと口を開いた。
「テントで戦いが始まったって言うのは本当だと思うわ。真昼の広場で突然、召喚された天使と悪魔があらわれたの」
「……」
「話では、サンダルフォンと、数体の悪魔がいたらしいわ。見ていた人の話によると、風を操る少年のような悪魔が一人、それから獣の頭を象った兜を身に付けた剣士と、それから大きな翼の狼がいたらしいわ」
「ハルファスとサブノックさんと……たぶん、マルコシアスさんだと思う」
大きな翼の狼。
左手がずきりと痛んだ。
「悪魔を引き連れた男性は、そのままサンダルフォンと交戦を始めたと聞いたわ。その影響で広場がかなり破壊されたらしいの」
「街のみんなは大丈夫だったの?」
「怪我をした人はいるみたいだけれど、ほとんど人的被害はなかったと聞いたわ。ウォルジェンガが……アレイスター=クロウリーはかなり気を使って戦っていたみたい」
「……そう」
「アレイスター=クロウリーはそのままサンダルフォンを誘導し、空から国境を越えた」
強行突破。
いつもと一緒だ。あの人はいつも自分を盾にしておれを逃がすから。またあの人はすべてを背負ってセフィロト国の目をおれから逸らす気だ。
「そのあと、アレイスター=クロウリーがどこへ行ったのかはわからないわ。とにかく、正当じゃない手段で国境を越えることに成功したのだけは事実よ。ただし、捉えられたという情報はないわ」
アレイさんはリュケイオンに入った。
サンダルフォンと交戦中だったのだ。相手を倒したのか、どうにかして逃れたのか……いずれにせよ、無事でいるとは思えない。
早く。
右手の拳をきつく握り締める。
「……おれはアレイさんを追いかけてリュケイオンに向かいたい」
「分かっていますよ。すでに手続きは済ませてあります。今回の事件のおかげで慌てて国へ戻ろうとしている人々は多い。それに乗じて国を出ようと思います。うまく準備すれば午後には行けるけど、グレイスの体調次第かな?」
「おれは大丈夫だ」
「分かりました。すぐに準備しましょう」
モーリはにこりと笑った。
「シドは?」
「彼はまだ動いてはいけないと医者に言われています」
「あれ、じゃあ昨日の夜……」
おれの傍にいてくれたのは?
そう言うと、ルゥナーの眉が跳ね上がった。
「昨日の夜、シドがどうしたの?」
あ、しまった。
どうやらシドはまだ絶対安静らしい。
当たり前だ。何しろ腹を貫かれたのはまだ数日前、傷がふさがるどころか本来なら欠片も回復していないはずなのだ。
それを押しても昨日の夜、おれに会いに来てくれたのは相当無理していたに違いない。きっと、どうしてもおれにフェリスのこととアレイさんの事を伝えたかったんだろう。
しかもおれ、そんなシドにわがまままで言って……
目をそらしたが、遅かった。
「誤魔化しても駄目よ、グレイス。貴方の嘘は分かりやすいわ」
「んーとねぇ、えーっと……」
ごめん、シド。
「まったく、あの子ったら……」
ルゥナーは立ち上がった。
「ルゥナー、シドを怒らないで! おれ、シドのおかげで元気になれたんだっ」
慌ててそう言うと、ルゥナーは肩をすくめて笑った。
「大丈夫よ、怒るわけじゃないわ。ちょっと注意するだけよ」
「じゃあ僕も準備に行きますね」
二人同時に立ちあがって、部屋の入口に向かう。
「グレイスは、ここでちゃんと大人しくしているように」
最後にしっかり釘を指して、ルゥナーとモーリは出ていった。
ずっと体を起こしていたから疲れた。
ぽふん、とベッドに倒れ込んだ。
右手の篭手を外して、右腕に刻まれた悪魔紋章を一つ一つ確認していく。
「フラウロスさん、アガレスさん、アイムさん、フェネクス、イポス」
おれに力を貸してくれると言ってくれた5人の悪魔たち。
「ルシファ」
そして額に刻まれたリュシフェルの印。
召喚すればセフィラに気づかれてしまうから今はまだ呼べないけれど。
「もう少しだけおれに付き合ってくれる?」
そう言うと、紋章たちは答えるように少し熱くなった。
「……ありがと」
右手をギュッと握りしめた。
待ってて。アレイさん。すぐに行くから。
午後になってルゥナーとモーリがそろって部屋に戻ってきた。
「行きましょうか」
「立てるかしら?」
「ん……まだちょっと無理……かな」
「そうだろうと思って車いすを用意してありますよ」
モーリはおれを車いすに乗せた。
きぃきぃ、とタイヤのきしむ音がする。
「シドは?」
「先に運んであるわ。本当はまだ動いちゃ駄目なのに、どうしても一緒に行きたいって言うから……あの子があんなに主張するなんて初めてだったし」
「大丈夫なの?」
「ええ。もう二度と無茶して動いたりしないようにしっかり言ってあるから」
「……」
車いすで病院を出ると、目の前には大きな馬車が止まっていた。
それも一台ではなく、数台が列をなしている。
「歌劇団の馬車よ。テントと一緒にいくらか壊れてしまったけれど、団員と荷物を運ぶには丁度いい数が残っていたわ」
その言葉で、さすがに口を噤んだ。
テントと馬車を破壊したのはきっとアレイさんだから。
それを感じ取ったのか、モーリは優しく笑った。
「気にしなくていいですよ、グレイス。貴方のせいではないんですから」
「……でも」
「第一、今回は神官が絡んでいる、という事でセフィロト国から援助が出ましたから。関所を越えるための手続きが比較的簡単に済んだのもそのためです」
「そうだったんだ」
「これほど街が荒れてしまったら僕たちも興行と言うわけにはいきませんからね。相手にも非がある事ですから、多少無理を言っても通してもらえました」
「……」
優しげなモーリがセフィロト軍相手にごり押しするところを想像したが、どうしても出来なかった。
馬車に乗り込むと、奥の一番広い席に、シドが横たわっていた。
「シド」
笑って手を振ると、シドは軽く首を動かした。
モーリはおれを車いすからおろして、シドの隣に座らせてくれた。
「忘れるところだったわ、グレイス」
ルゥナーがぱさり、とおれの頭に何かをかぶせた。
視界の隅に金色が過った。
「これは?」
「変装用のカツラよ。ま、気休め程度だけど」
ルゥナーはにこりと笑った。
「さあ、行きましょう。グレイス、向こうでウォルジェンガさんが待っているんでしょう?」
「うん」
モーリが合図すると、馬車は進みだした。