SECT.13 シド
ふと、ベッド脇に気配を感じた。
目を開けると、藍色の髪の青年が跪いていた。
部屋の中は暗い。どうやら今は夜になっているようだ……時間感覚の薄い今は、その程度しか分からなかった。
「……シド。元気になったんだね」
そう言うと、シドは藍色の髪を揺らしてとても悲しそうな顔をした。
そして唇を引き結び、小さな声で呟いた。
「申し訳ありません。私は貴方のお役に立つことが出来なかった」
「……?」
首をかしげて見せると、シドは目を閉じた。
まるでこれから懺悔をはじめる者のように。
「私はフェリスがセフィロト国の間者である事にはずっと気付いておりました。しかし、これまでは何ら表だって行動する事もなく、ただこの歌劇団に紛れているだけだったのです。だから、油断していました」
そうだ。
フェリスは、シドが悪魔の国の騎士だって言った。
「シドはグリモワール騎士団にいたの?」
「はい。貴方が戦場へ去って最初の騎士団試験に合格し、最後の騎士団員として漆黒星騎士団員となりました」
「最後の騎士団員……」
ということは、ライディーンの一つ下の後輩になる。それでおれには見覚えがなかったんだ。
おれは漆黒星騎士団にはずっといたから、ほとんどの団員の顔を覚えているはずだったもの。
「私たちは鷹部隊長ライガ=アンタレスの指揮下、戦場へ赴きました。そこで貴方の姿をお見かけした事があります。だから、一目見た瞬間から、貴方がレメゲトンのラック=グリフィスである事は分かっていました」
凛とした丁寧な口調は、無口なシドにとてもよく似合っていた。
画に描いたような騎士の振る舞いは、あの戦場を思い起こさせる。
「びっくりしたでしょ?」
「……はい。まさかこのような場所で再びお会いするとは思ってもおりませんでしたので」
「ごめんね。おれのせいで酷い怪我をさせてしまった」
素直に謝ると、シドはとんでもない、と首を振った。
「本来ならフェリスの横暴を止めるのは私の役目でした。しかし、私は失敗したのです。フェリスは……強かった」
あの舞台上での剣舞。
あれは、演技などではなく、二人が本気で争っている場面だったのだろう。
二人が二人とも本物の剣を持ち、殺気だって切り合う本物の戦闘だったのだ。
「シドも強いさ。二人が同じ武器を持ってたら負けなかったはずだ」
「とんでもない」
シドはまた首を横に振った。
さらさら、と藍色の髪が揺れて、一瞬だけ右目が見えた。
その右目は、左目とは少しだけ色が違っているように見えた。
右目を隠す長い前髪はその色を隠しているせいなのかもしれない。
シドは唇を引き結び、静かに告げた。
「ご報告させていただきます……クロウリー伯爵はすでに、国境を越えました」
「!」
どくん、と心臓が大きく跳ねた。
瞬間、左腕がずきりと痛む。
「サンダルフォンとの戦闘の中でそのまま国境を――その後の行方については、分かっていません」
「アレイさん……っ」
どうなったんだろう。
サンダルフォンと戦闘して無事で済むはずがない。リュケイオンに入って、戦って領地を荒らせば、リュケイオンの兵士たちも出てくるだろう。挟みうちにして狙われたりしたら――
「今、国境付近はその戦闘の影響で混乱状態です。団長のモーリとルゥナーが、この混乱に乗じて国境を越えるために画策しています。早ければ明日、遅くとも3日以内には国境へ向かう事ができるでしょう」
モーリとルゥナーが。
そうだ、あの二人は、おれたちの味方をするって言ってくれたんだ。
「もう少しだけ辛抱してください。きっとクロウリー伯爵もリュケイオンで貴方をお待ちしているはずです」
ああ、どうしておれにはなんの力もないのだろう。
こうして隣に跪いてくれる騎士団の青年一人、どうして救えなかったのだろう。彼はおれのこと、命をかけて守ろうとしてくれているのに。
モーリもルゥナーも危険を冒してまでおれを送り届けると誓ってくれたのに。
「……シド」
グリモワール王国はもうない。
でも、おれがレメゲトンだった事実は変わらない。シドが騎士団員だった過去も変わらない。
こんなセフィロト国の端でグリモワール王国の騎士団員に会えた事は奇跡なのかもしれない。
「ごめんね……おれ、グリモワール王国を守れなくて……ケテルなんかに負けてしまって、ごめん」
ずっと謝りたかった。
国の為にと命を賭してあの戦場で戦ってくれた人たちに。その勝利を信じて戦場へと大切な人を送り出してくれた人たちに。
おれがあの時、勝つ事が出来ていれば。もっと力があれば。
もっと――
「そんな事、おっしゃらないでください」
シドの悲痛な声がした。
「もし貴方に国が護れないと言うなら、私こそ何もできなかった。どれだけ剣を振っても、騎士団に入っても、戦場へ行っても、私に出来ることなど何もなかった」
「でも、おれにはどうにかできる可能性があったんだ」
おれとアレイさんとライディーンだけが、天使と戦える悪魔の力を持っていたから。
それなのに。
「ミス・グリフィス」
懐かしい名で呼ばれ、はっとシドを見た。
「漆黒星騎士団の先輩方に聞いていた通りだ。貴方は、とても優しい。でも、そんな事を気に病む必要はありません」
シドは穏やかな表情をしていた。
「あれは戦争です。セフィラとレメゲトンの喧嘩というわけじゃない。国と国が総力を挙げて戦った、戦争だったんです。だから、あの敗北の責任を負う人間がいるとしたら、貴方だけじゃない」
髪と同じ、シドの藍色の左目がおれを真っ直ぐに見ていた。
「貴方だけでなく、クロウリー伯爵も、ゼデキヤ王も、クラウド団長も、ライガ部隊長も、騎士団員一人一人も、そしてグリモワール王国を愛したすべての人々が負うべき罪です。それは、断じて貴方一人のものじゃない」
シドははっきりとした口調でそう言った。
優しくも厳しいその口調は、まるで漆黒星騎士団長だったクラウドさんのようだった。
「だから、その罪は全員で背負わせてください。すべての罪をレメゲトンに押し付けて私たちがのうのうと生きていくなど、それこそ騎士の名折れです」
すごいね、クラウドさん。
騎士団長だった彼の心は、こうやって騎士団員たちに受け継がれていくんだ。それは、グリモワール国亡き今でも、こんなセフィロト国の片隅でも。
「……シド」
「なんでしょう?」
「ありがとう」
ほんの少しだけ、全身の痛みが和らいでいた。
相変わらず左腕はピクリとも動かないし、心臓の拍動に合わせてずきりずきりと痛みを吐きだしていたけれど。
心のどこかにほんのりと明かりがともる。
おれはいつもそうだ。
絶望に喰われそうになるたび、いつも周りの人が助けてくれるんだ。
――だからおれはこの世界を守りたいって思うんだ
二度と絶望に身を任せたりしない。
負けない。
必ず、生きてリュケイオンへ。
「ねえ、シド」
年下の彼に頼むのは筋違いかもしれないけれど。
「ちょっとだけ甘えてもいい?」
それを聞いて、シドは少し迷ったようだったが、はい、と答えた。
「おれがさ、寝るまででいいんだ。そこに、いてくれる?」
「もちろんです」
「でさ、もしよかったら――」
もうひとつお願いをすると、シドはひどく困った顔をして、かなり迷った様子だったが、決心したようにおれに向かって手を伸ばした。
シドの手がおれの頭に触れた。
幼い子にするように優しく撫でていく。
「これでいいのですか?」
困惑した声。
声と裏腹に、シドの手は優しかった。
「うん、クラウドさんがね、よくこうしてくれたんだ」
それを聞いたシドは、くすりと笑った。
ああ、笑ったところは初めて見たかもしれない。
「おやすみなさい、ミス・グリフィス」
「……おやすみ」
ダイアナさんが、クラウドさんが眠れない夜にしてくれたみたいに。
優しい掌の感触を感じながら、久しぶりに安らかな眠りに就いた。