SECT.12 片割れ
夢の中で、愛しいヒトの声を聞いた。
――俺は先に国境を超える。お前は、あの二人と一緒に後から追いかけて来い
あの二人? モーリとルゥナーのこと?
ほとんどぼんやりと声を聞いていた。心地いいバリトンは、おれを落ちつけていった。
――必ず、生きて、リュケイオンで会おう
「……アレイさん」
起きるより先に痛みが襲った。
まるで全身の力が吸い取られたように動かない。
その上、左手は焼けるように痛い。
「アレイさん」
それでも、いつも自分の隣にいるはずのヒトの名を呼んだ。
返事がないと、分かっていても。
代わりに返事をしたのは、顔のすぐ脇にいた悪魔だった。
「やぁっと起きたのぉ 遅いんだけどぉ」
間延びするような独特の話し方には聞き覚えがあった。
「……ロノウェ」
「聞いたぁ? 聞いたよねぇ? 僕もう帰りたいんだけどぉ」
全身に複雑な黒の紋様を刻んだ真っ白い毛並みの小さなサルは、長い尾を振りながらそう言った。額には、真っ赤に光る第3の目が開いている。
第24番目の悪魔、ロノウェ。疾風の速度で遠く離れた相手にメッセージを送ることのできる悪魔だ。
アレイさんが、右腕に刻まれた紋章で契約している悪魔の一人。
「アレイさんは……どうしたの……?」
「サンダルフォンのとこだろぉ? さっきそうだったしぃ まだそんな感じだしぃ」
「……っ」
サンダルフォンの名を聞いて、さっと血の気が引いた。
アレイさんがマルクトと戦っている。
――俺は先に国境を超える。お前は、あの二人と一緒に後から追いかけて来い。必ず、生きて、リュケイオンで会おう
先ほどの言葉は幻聴ではなかったらしい。
ロノウェが伝えた、紛れもないアレイさん自身からのメッセージだ。
「んじゃぁ 僕は行くからねぇ」
さっと消えようとしたロノウェの長い尻尾を、思わず掴んでいた。
急に動きを止められて、ずべ、とベッドに顔を打ち付けキャンと啼いたサルは、鼻を押さえながら抗議の声を上げた。
「何すんのぉ 意味分かんないんだけどぉ ふざけんなよぉ」
「ご、ごめん」
体が動かせなかったから、必然的に唯一動く右手で尻尾を握るしか手段がなかっただけだ。
おれが掴んだしっぽの根元を小さな両手で引っ張り返し、解放したロノウェは、鋭い歯をむき出しにしながら威嚇した。
「もぉ 知らねぇ 勝手にそこでくたばってろぉ」
「待って。おれもアレイさんに伝えてほしいんだ」
「はぁ? 意味分かんないけどぉ 僕 お前と契約してないんだけどぉ」
「いいじゃん、ちょっとくらい」
左手が焼けるように熱い。全身をめぐる血も沸騰するほどに熱く、とても体を起こせる状態ではなかった。
「お願い――死なないで――って伝えて。必ず」
それを聞いたロノウェは、複雑な模様の入った長い自らの尻尾を両手で撫でながら、キッキ、と啼いた。
「しょーがないなぁ 特別だよぉ」
「ありがと」
ロノウェが消えるのを見送って、再び目を閉じた。
目を閉じると、さらに痛みと疲労が募るだけだった。
今すぐにでも立ち上がってアレイさんのもとへ行きたいのに。
ただ、それは不可能だということしかわからなかった。
「……アレイさん」
今すぐに、会いたい。
サンダルフォンと対峙するあの人の隣で、肩を並べて戦いたい――
頬を、涙が一滴伝った。
おれはずっと夢と現実の狭間を彷徨っていた。
左腕の痛みがひどい。そして、全身を覆う倦怠感も時を追うごとにひどくなっていった。今すぐにアレイさんのもとへ向かいたい気持ちとは裏腹に、体はほとんど動かせなかった。
まるで、戦争の時に王都へ置き去りにされた時のようだ。
あの時は自分も強くなって追いかけるっていう目標があったから前を向いていられた。
でも、今は――
――フフ ルーク 隙を見せタラ 乗っ取るヨ?
どこからか、ラースの声がする。
ここのところずっとそうだ。浅い眠りにある時、この殺戮と滅びの悪魔は耳元で囁いてくるのだ。少しずつ、おれの心の絶望を広げていくかのように。
――近クに アイツの チカラ 感ジルんダ もうガ慢できナイよ
あいつ? あいつって、誰?
――半端モノだヨ
半端モノ?
――アイツだヨ 天使でモ 悪魔デも 人間でもナイ 半端モノ
天使でも悪魔でも人間でもない。
それは誰?
――このマエから ルークの中ニ アイツの血がアるから 不愉快ダヨ
いったい、誰の?
しかし、ラースの言うとおり全身の血が沸騰しそうなくらいに熱いのも事実だった。そして、心臓の拍動に合わせてラースのくれた左腕はずきん、ずきんと波のような痛みが押し寄せる。
おれの中にある血とラースの左手が反発している……?
でも、おれの血はグリフィス家のモノだ。最初にコインを作ったゲーティア=グリフィス。脈々と受け継がれてきたその血がおれの中に流れている事は、額に刻まれたルシファの契約印が証明している。
それ以外の血?
おれの中に?
――アノ時だヨ キミが一度 死ンだ あノ時 アイツの血が 入り込んでキタ
忌々しげなラースの呟きが、一瞬だけ意識を覚醒に導いた。
一度死んだのは、あの戦場での出来事。あの時入り込んできた血……
はっとした。
あの時、おれとアレイさんは同じ剣で心臓を一つに貫かれたから。
――ボクは アイツを消すヨ その時ハ 体を 貸してネ
信じられなかった。
でも、確かにおれはこんな話を聞いたことがある。
魔界最強の剣士マルコシアスは、|翼の生えた狼の姿にもなれる《・・・・・・・・・・・・・》って。
過去を思い出した時、そして半年前にディファンクタス牢獄を破った時、おれは人型になったラースを見ている。浅黒い肌、鋭い目、そして恐ろしい炎妖玉の瞳。笑った時に覗く鋭い犬歯。
何より、その容貌はあの魔界最強の剣士と瓜二つだったんじゃないか?
――分かってル? ボクがキミと契約したのは
ああ、なぜ気付かなかったんだろう。
――アイツを 消スため だヨ?
ラース。マルコシアスさんは、お前の『片割れ』なの?
――そうダよ
ラースの返答に絶望した。
左腕が一瞬熱くなる。おれの絶望を喰って、ラースが喜んでいる。
――いいネ ルーク そうシて 絶望スルとイイ
ラースとマルコシアスさんが、片割れ同士。
戦場で互いを滅ぼし合ったフラウロスさんとカマエルさんのように。
ラースが宿るコインはおれの左手に。
マルコシアスさんの印はアレイさんの左胸に。
その二つが片割れ同士ということは、必然的に、おれはアレイさんと戦う事になってしまう。
――ボクは 半端モノなんカに 負けナイよ アイツ 人間ノせいで 半分シカ 力を出せナイんだ
嬉しそうに笑うラースの声がどんどん遠ざかっていく。
だめだ。
絶望する事だけはだめ。
ラースの凄まじい力でまたおれは周囲をすべて破壊してしまう。
それだけは――
浅い眠りから覚醒した。
目頭が熱い。知らぬうちに涙していたのかもしれない。
今が朝なのか夜なのか、アレイさんと別れてからいったいどれだけの時が経っているのか、見当もつかなかった。
「ラース……おれとマルコシアスさんを戦わせる気なの……?」
返答のない問いを呟いて、想像して、心の奥底からえぐり取られたような感覚を受けた。
体も心もぼろぼろだった。
「アレイさん……!」
必ず生きて、リュケイオンで。
ロノウェが伝えたメッセージだけが頼りだった。
「グレイス、大丈夫よ。必ず貴方をリュケイオンへ送り届けるから――」
ルゥナーが強い意志を込めてそう言ったのを、夢うつつに聞いていた。