SECT.11 ”ラース”
全身ががたがたと震えていた。
こんな一方的な懺悔を聞いたら、やさしいモーリとルゥナーが困るって分かっていたのに、自分の中からあふれ出る感情を止められなかった。
こんなの、ただの甘えでしかないのに。
隣にアレイさんがいないだけで、俺は全然だめなんだ。
「アレイさん……!」
唇の端から漏れた名は、これまで何度も何度も繰り返してきて、これから何度も何度も繰り返す名前なんだろう。
今にも膝をついて崩れ落ちそうだった。
「本当の名前は、ラック=グリフィスと言うんですね」
モーリが静かに尋ねた。
声を出せず、俯いたまま静かに頷いた。
「君はその小さな体に、とても強大な力を秘めている。それは、世界を左右するほどの力です」
その言葉を聞いて、おれははっと顔を上げた。
悲しそうな目をしたモーリがおれを見下ろしていた。
「その左手はきっと自分のものではないのですね。それは君の中の血と反発しています。それだけじゃない、君が最も大切に想っている彼とも正反対の性質をもつものです」
「モーリ……?」
先ほどまでと違う雰囲気のモーリに、少しだけ戸惑った。
「君は、小さな手で目に映る人も映らない人も、誰も彼もを救おうとするとても優しい心の持ち主です。でも、それがゆえ君には多大な困難が与えられるでしょう」
すっと跪いたモーリは、おれの左手をとって、篭手の上から軽く甲に口づけた。
「君たちの旅路に幸あらんことを……私は、少しでも君の力になりたいと思います」
そう言ったモーリからは、少しだけ不思議な気配がした。
天使や悪魔に似たその気配を感じたのは一瞬だけで、すぐに消えてしまったけれど。
「必ず貴方をこの国から救い出して差し上げます」
モーリはきっぱりと言い切った。
「……ぁ」
のどが張りついたように声が出なかった。
鼻の奥がつんとしたけれど、なんとか泣くのをこらえた。
「あ、ありが、とう」
なんとかそう言うと、モーリはにこりと笑い返してくれた。
それを見て、おれもつられて微笑んだ時だった。
背筋を、ぞわりと冷たいものが走った。
強大な天使の気配が突然現れたのだ。
思わずはっと窓の外をにらむ。
「サンダルフォン……!」
マルクトが――シアが、来ている。
直感的にそう気づいた。
おそらくアレイさんが悪魔を召喚したことで、この場所が露見したんだ。
「行かなくちゃ」
サンダルフォンは天界の長メタトロンと並び称されるほどの強力な天使だ。いかにアレイさんが強いとはいえ、きっと一人では危険だ。
衝動的に部屋を飛び出そうとした時、後ろ手に手首がつかまれた。
「だめ、グレイス!」
「ルゥナー?」
見ると、蒼白なルゥナーがおれを止めていた。
「駄目よ、サンダルフォンって、セフィロト国の神官が召喚する天使の名前でしょう? 今行ったら、グレイスは戦うんでしょう?」
「そうだよ」
そう言うと、ルゥナーは首をフルフルと横に振った。
「やめて。グレイスまでシドみたいに大怪我しちゃったら……!」
ベッドの上に横たわる藍色髪の青年を見て、ぎゅっと心臓が掴まれた。
ルゥナーはそっとおれの手を離した。
「行かないで、グレイス。あなたが怪我をするところなんて見たくないの」
「でも、このままじゃアレイさんが」
なんとか説得しようと口を開いたとき。
左手を凄まじい痛みが貫いた。
まるで脳髄を揺さぶられるような痛みに、思わず喉の奥から絶叫が漏れた。
「うわああああっ!」
埋め込まれたコインが熱い。
熱さを通り越して痛みしか伝えない左腕は、内側から何者かが食い破ろうともがいているようだった。
「グレイス?!」
「痛っ……ぁあ……っ!」
その声で、看護師さんが部屋にやってきた。
「どうされました?」
そして、左腕を庇うようにして床に転げたおれを見て、左腕を診ようと手を伸ばした。
「触るなぁっ!」
反射的に伸ばされた手を振り払う。
痛みや熱さと共に悪魔の気が漏れだしている。これに触れていれば、普通の人はすぐに体に変調をきたしてしまうだろう。
「落ち着け……ラースっ……!」
右手で左腕を抑え込み、必死で痛みに耐えた。
まるで、耳元で殺戮と滅びの悪魔が囁いているようだ。
今すぐにここから出せ、と。
「何で急に……」
第25番目、殺戮と滅びの悪魔グラシャ・ラボラスが何かに反応して荒れ狂っている。
「グレイス、どうしたの? グレイス」
ルゥナーの声。
「お願いだ……おれに近寄らないでくれ……!」
このままでは、この左手が周囲の人間すべてをのみ込む狂気と化してしまう。
左手が言う事をきかない。自分の意思が全く通用しないそれは、近寄ろうとしたルゥナーを弾いた。
「きゃっ……」
短い悲鳴を上げて倒れたルゥナーを見て、血の気が引く。
駄目だ。
やめろ……!
考えるより先に腰のショートソードを引き抜いた。
躊躇はなかった。
武器の悪魔サブノックが鍛えた鋭い刃を、思い切り左手の甲につきたてた。
「あああああ!」
喉の奥から悲鳴が迸る。
これまでの暴れるような痛みと違う鋭い痛みに、少しずつ左手の制御が自分の意識化に帰ってくる。震えるほどの刃の痛みが現実へと引き戻す。
どくん、どくんと心臓の音が近づいてくる。
「大丈夫ですか!」
看護師さんの悲鳴。
縫いつけられた左手を見て、ルゥナーが卒倒した。
「……大丈夫。これで、大丈夫」
痛みはひどかったが、先ほどまでに比べれば。
なんとかラースは落ち着いたようだ。
背中にも額にもびっしょりと汗をかいている。ショートソードの間からは、どくどくと血が湧き出してきた。
「ごめん、包帯……少し、分けてもらえるかな?」
血の匂い。
あ、まずい。
「剣を抜かないで! すぐに処置します!」
看護師さんの声がひどく遠くに聞こえた。
気の遠くなりそうな痛みの中、悪魔の気配が近づいているのを感じた。
「……アレイさん……?」
もう限界だった。
真っ暗な闇が下りてくる。
看護師さんが戻ってくるのを待たず、おれは意識を手放した。