SECT.10 悪魔の国
「あ、そうなの? 言われてみればシアさん、何年か前にリュシフェルの抹殺の為に悪魔の国に潜んでいたことがあるんだよなぁ。その時かなー?」
鋭利な銀色のナイフがずらりとフェリスの手に現れた。
まさか、本気でこの真昼の広場で戦闘を始めようというのだろうか?
それはまずい。周囲の人が巻き込まれる可能性が高すぎる。
「場所を変えるぞ、くそガキ」
アレイさんも同じ考えだったんだろう。
ぱっとおれの手を取ってフェリスの横を駆け抜けた。
「あっ! 逃げないでよー!」
フェリスももちろんすぐに追ってくる。
「ど、どうするの、アレイさん?!」
強く手を引いて駆けるアレイさんに問うと、彼ははっきりと告げた。
「迎撃する。一か八かマルコシアスを召喚する。だから、テントに飛び込んだらお前は少し離れていろ」
「えっ……?」
驚く間もなく、歌劇団のテントの中に飛び込んだ。
シドはすでに運ばれたのだろう、ホールには誰もいなかった。
モーリは、ルゥナーはどうしただろう……?
「お前は先に逃げろ。あいつを倒したらすぐに追いかける」
アレイさんはそう言ってくるりとおれに背を向けた。
生半可な態度ではフェリスに勝てない。それはおれにだって分かっている。
でも、アレイさんを置いて逃げることなんて、おれには――
「マルコシアス!」
鋭い声とともに、アレイさんの背に大きな翼が広がった。
マルコシアスの召喚。
同時に、黒髪の間から短い角がのぞき、周囲を強大な悪魔の気配が包み込んだ。
「早く行け。俺もすぐに行く」
はっきりとした口調、強い意志を秘めた声。
おれは思わず頷いていた。
「分かったよ、アレイさん……おれ、モーリとルゥナーを探して、ちゃんと全部話すよ。全部話して、頼んでみるよ。だから……」
きっと、追いかけてきて。
おれは純白の翼を背負ったアレイさんにくるりと背を向け、フェリスの殺気からも逃げ出した。
話そう。全部話そう。モーリとルゥナーを探して、おれのこと、アレイさんのこと、セフィロト国の事も神官に追われていることも、全部話そう。
そして、助けてって頼むんだ。おれの力じゃ、どうしようもないことだから。
背後で、アレイさんとフェリスの武器がぶつかり合う音が響いた。
おれはそのまま、モーリとルゥナーを探して、テントを飛び出した。
二人はどこへ行ったんだろう?
考えて、はっとした。
「お医者さんのところだ」
きっと、シドが運ばれていった医者のもとに付き添っていったはずだ。
テントから漏れ出る悪魔の気配を振り切るように、駆けだした。
広場の人に聞きながら街中の診療所にたどり着いた時には、すでに息が切れていた。
額の汗を篭手でぬぐいながら、診療所のドアをノックした。
「はーい」
ぱたぱた、と足音がしてガチャリとドアが開いた。
そこからひょい、と顔を出したのは大きな目をした小さな看護師さんだった。看護師さんのトレードマークの白い帽子は、はるか目線の下にあった。
「何のご用ですか?」
首をかしげた看護師さんに、『行儀のいい挨拶』を実行する。
「こんにちは、はじめまして。おれ、グレイシャー=グリフィスと言います。えと、たぶんさっきおれの友達がここに運ばれてきたはずなんだ。シド、って言うんだけど……」
「ええ、いらしてますよ。でも、お話しできないかもしれませんけど、いいですか?」
「あの、付き添いでモーリとルゥナーはいるかな?」
「モーリ、というとあの穏やかそうな男性かしら」
「うん、たぶんそう。ルゥナーはすっごい美人のヒトだよ!」
「ええ、お二人もいらしてますよ」
「ありがとう。入っていい?」
「ええ、どうぞ」
その小さな看護師さんはおれを診療所に迎え入れてくれた。
すっとしたお薬の匂いが充満する診療所は小ぢんまりとしていたが、設備はかなり整っているようだった。何より、滅菌された手術室が完備されているのは非常に珍しい。東方から伝わってきた外科手術も行うのだろう。こんな小さな診療所には珍しい。
看護師さんは、細くて短い廊下を案内して、一つの部屋の前で立ち止まった。
「お静かにお願いしますね」
「うん、ありがとう」
ドアをノックする前にひとつ大きく深呼吸。
「よし」
決意すると、目の前のドアノブに手をかけた。
部屋の中では、モーリとルゥナーが並んで椅子に腰かけていた。
窓付近のベッドには、藍色髪のシドがぐったりと横たわっていた。
「グレイス。もう大丈夫なの?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう、ルゥナー」
ベッドの中のシドの顔は蒼白で、たくさんの血を失ったことは一目で分かった。
「シドは?」
「大丈夫よ。なんとか命は助かったみたい。回復には……まだかかるでしょうけれどね」
ルゥナーは悲しそうに微笑んだ。
「そっか……」
シドが刺されたのは、おれのせいだったから。
ベッドの脇に跪き、冷たくなってしまっているシドの手を取った。
「ごめんね、シド」
シドの手を握りしめて額に当て、心の底から謝った。おれがここに来なければ、こんなことにはならなかったのに。
こうならないために故郷を捨てて、子供たちを置き去りにしてここまで来たっていうのに、おれは、おれたちは存在するだけで周囲の人たちを傷つけることしかできないんだろうか……?
胸の奥にどうしようもない感情が渦巻く。
忘れていた罪が噴き出してくる。
「本当にごめんなさい」
もう一度呟いて、胸が裂けそうな感情を抑えて唇を引き結んだ。
これ以上、シドのような被害者を出すわけにはいかない。
そっと手を離してベッドの上に戻し、おれはモーリとルゥナーを振り返った。
「モーリ、ルゥナー。二人に頼みたいことがあるんだ」
騎士がそうするように、片膝をついて敬意を示しながら。
おれははっきりと告げた。
「おれとウォルを、隣国リュケイオンに連れて行って欲しいんだ」
部屋に沈黙が下りた。
最初に口を開いたのはモーリだった。
「グレイス、ゆっくりでいいから訳を聞かせてくれるかな?」
やさしい言葉に、思わずこくりと頷いていた。
一つだけ大きく深呼吸し、左手の篭手を外した。
すると、手の甲に埋め込まれたコインと、その周囲が焼け爛れたように赤黒く血管が浮いている様子があらわになった。
ルゥナーが一瞬息を飲んだ。
「おれの本当の名前は『ラック=グリフィス』――4年前の戦争で滅びたグリモワール王国の、レメゲトンだ」
レメゲトン。
セフィロト国の神官と対にされる存在で、コインを使って悪魔を魔界から召喚し、人知を超えた能力を駆使して戦ったとされる、グリモワール王国の天文学者の事だ。
「これはその証拠、第25番目グラシャ・ラボラスのコインだよ。契約したのは戦争よりずっと前の話だけど」
左手の篭手をつけ直し、再び二人に向き直った。
「それから、ウォルジェンガの本当の名前は『アレイスター=クロウリー』。彼も同じ、レメゲトンだ。だから、言うまでもなくおれとアレイさんは今、セフィロト国に追われてる」
心臓が飛び出そうなくらいにばくばくと脈打っていた。
「おれたちは国境を越えるつもりだ。でも、きっと二人だけで国境を越えるのはすごく難しいんだ。だから、モーリとルゥナーに手伝ってほしい」
二人は目を丸くしておれの方を見ていた。
「突然こんなことを言い出してごめんなさい。でも、もう時間がなかったんだ。だって――」
ベッドに横たわるシドを見て、決意して告げた。
「シドがこんな怪我をしたのは、おれのせい、だから」
その言葉を聞いて、モーリが首を傾げた。
「シドの怪我がグレイスのせいだって? それはいったいどういう意味なんだい?」
責めるわけでもなく、突き放すわけでもなく、ただ不思議そうに。
ルゥナーの青い瞳がまっすぐにおれを見つめていた。
ただ、信じられないと驚いて。
「ごめんね、ルゥナー」
もはやおれには謝ることしかできなかった。
「フェリスはおれの敵なんだ……セフィロト国の神官が放った密偵で、今も、おれとアレイさんの命を狙ってる」
絞り出すように言葉を放つと、ルゥナーの表情が強張った。
「フェリスもシドも、昨日合った時点でおれが誰か分かってたんだ。詳しいことはおれにも分かんないけど、フェリスはシドの事を邪魔だと思って、あんなこと」
「フェリスが……? フェリスが、シドを、邪魔だと思ったって言うの……?」
ルゥナーの顔が青ざめている。
「だってフェリスがそう言ったんだっ……!」
おれとアレイさんを殺して、シアのもとに持ち帰って褒めてもらうって言ったんだ。
「フェリスは、おれのことが嫌いなんだ……おれが、セフィロト国の敵だから、悪魔だから、殺すって言ったんだ。シドのことも消すつもりで刺したって。でも、失敗したって」
全身が震えている。
自分がいったいどんな言葉を紡いでいるのか、それを聞いている二人がどんな表情をしているのかも分からなかった。
「ごめんなさい……おれさえここにいなければ、こんなことにはならなかったんだ……!」