SECT.9 フェリス
テントに戻ると、ステージは白いシーツが張られて隔離されていた。どうやら医者が到着してシドの治療を始めたらしい。
ちょうど、両手をシドの血に染めたアレイさんがステージから降りたところだった。
テントには血の匂いが充満している。
――キモチワルイ
フラッシュバックの悪寒が全身を包み込み、背筋を冷たいものが駆け抜ける。
むせ返るような血の匂い。
暗闇に浮かぶのは淡く燐光を放つ銀髪――
「……お前はまだ外にいろ、くそガキ」
はっとすると、アレイさんの紫の瞳が見下ろしていた。
しまった。血の匂いに充てられてぼーっとしていた。
リュシフェルがおれの記憶すべてを解放した今、過去のフラッシュバックに苛まれることは少なくなっていたが、血の匂いは今でも苦手だった。
先ほどアレイさんが、おれにルゥナーを連れ出すよう指示したのは、ルゥナーのためだけでなく、おれ自身の為でもあったんだ。
「グレイス、顔色が悪いわ。無理しないで。私はモーリの様子を見てくるから、ウォルジェンガさん、グレイスをお願いね」
「……ん、ありがと、ルゥナー」
さっきまでおれがルゥナーを心配していたのに、これじゃ立場が反対だ。
しかしながら、ルゥナーの申し出は非常にありがたかったので、半ばアレイさんに引きずられるようにして再び外に出た。
アレイさんは、平気か、とか無理するな、とかいう言葉はあんまり使わないけれど、おれのことをいつも一番に心配してくれるのは彼だと知っていた。
外に出て血の匂いから遠ざかり、広場のミカエル像の台座に腰かけた。
道行く人々の歩みを見ながら、心臓の鼓動を少しずつ落ちつけていく。
手に付いていた血を洗い流したアレイさんもおれの隣に腰かけた。
遠慮せずその肩にもたれると、多少いやそうな顔をしたけれど振り払うことはせず、小さく一つ溜息をついただけだった。
「……あまりくっつくな」
「いいじゃん」
ここなら大丈夫。
「あの、シドとかいう剣士は大丈夫だ。出血はひどいが、見た目の割に内臓の損傷はそれほどない」
「そっか。よかった」
安心して目を閉じると、大きな手がやさしく頭を撫でていった。
「アレイさん、フェリスは何者かな?」
「わからん。どうやらわざと実力を隠しているようだが……お前はそれにも気付いていたのか?」
「んー、なんとなく、だけど、昨日の手合わせで手加減の仕方が不自然だなとは思ってたよ。だから、きっと何か隠してるだろうなと思ってさ」
よろけるはずのない攻撃でわざとよろけて見せたり、最後の一瞬に殺気を放ったり。
強くなったり弱くなったりするちぐはぐな攻撃。
きっとよく考えればすぐに気づけることだったんだ。
「フェリスはなんでシドを傷つけたのかな?」
昨日会ったときは、あんなに仲良さそうだったのに。
あれも全部演技だったというんだろうか?
「シド個人を傷つけたかったのかな?」
「あの瞬間の殺意は本物だった。その、フェリスというヤツは本物の剣を手にしていることをわかっていて、そのうえで命を奪う攻撃をした」
「どうして……? シド本人を殺そうとしたの? それともガリゾーント全体を……?」
「ガリゾーント全体だとしたら、シドが重症の今、あのフェリスというヤツの独壇場だ」
はっとした。
フェリスの殺気を思い出し、背筋が震える。
あれがルゥナーに向けられたら?
「戻ろう、アレイさん」
「……その必要はない」
「え?」
アレイさんがおれを庇うように前に立った。
これまでずっと守ってきてくれた大きな背中。
呆けたように見つめた視線の先に、金髪黒ニットの青年が立っていた。
血に染まった将軍の衣装はすでに着替えてしまったのだろう。黒ハイネックにカーゴパンツ、黒ニット帽の下のセルリアンの瞳をキラキラとさせて、フェリスはへらへらと笑っていた。
「二人で揃っていてくれると、オレっちとしては非常に嬉しいねえ」
アレイさんの背中越しに、フェリスが今まで隠していた敵意が突き刺さって、思わず両肩を抱いた。
最初に会ったときは猫のようだと思ったが、違う。
猫どころじゃない、これは食肉の大型獣だ。しなやかな体で獲物をしとめる狩人。
悪魔の気配はない。天使の気配もない。フェリスはまぎれもなく普通の人間だ。
それなのに、まるで魔界や天界の住人を目の前にしたときのように震えた。
「フェリス」
声が震えた。
アレイさんがおれたちの間に割って立ち、眉間にしわを寄せてよく通るバリトンで告げた。
「何の用だ」
肌に警戒の空気がぴりぴりと刺さる。
「ごめんねー、グレイス。かわいい娘は好きなんだけど、オレっちの世界で一番大切なヒトは、グレイスが大っきらいなんだよねー」
大嫌い。
ダイキライ。
心を抉る言葉だった。
「俺たちが何者か分かっているような口ぶりだな」
「あったり前じゃん?」
目の前にいるフェリスの表情も動きも全く変わっていなかった。
それなのに、まったく別の人間に見えた。
隠そうとしない殺気、背筋が震えだし、目の前に立つのが恐ろしい。生物としての本能が告げる――この男の前に立ってはならない、と。
「いつから? いつからおれが……『ラック=グリフィス』だって知ってた?」
「んー、最初は半信半疑だったんだけどね。でも黒髪の二人組って時にちょっと疑っててさー。確信したのは手合わせした時かなぁ?」
フェリスはくるりくるりと手の中のナイフを弄ぶ。
「強かったのさぁ。オレっちが思わず本気出しそうになるくらいに」
ぴっとナイフの先をおれに付きつけて、フェリスは笑う。
あの瞬間の殺気は、やっぱり気のせいじゃなかったんだ。
「じゃあ、フェリス。なんで、シドを刺したの?」
「それは簡単さぁ。アイツもグレイスの正体に気づいちゃったからだよー?」
「……?!」
シドもおれが『ラック=グリフィス』だって気づいてた?!
「行動が軽率だな、くそガキ」
「ご、ごめんなさい、アレイさん」
よく考えたら、おれはずっとアレイさん、アレイさん、って呼んでた。隠すも何も、もしかするとモーリとルゥナーだって気づいてるかもしれない。
「アイツ、悪魔の国の騎士だったからさぁ、オレっちの敵だし、邪魔になるし、事故っぽく消しちゃおうと思ったんだよー。失敗しちゃったみたいだけどね」
「シドが……グリモワールの騎士?! じゃあフェリス、おまえは何者なんだ?! セフィロト国の追手なのか? すげぇ強そうだけど、聖騎士には見えないし」
「うわっ、グレイス、それって結構失礼だよ、失礼なこと言ってるよ。オレっち、そんなにも騎士っぽくない?」
「うん」
素直に返答すると、フェリスは額に手を当てて天を仰いだ。
「ひっでーなぁ。これでも頑張ってるんだよ? なにしろ、オレっちの当面の目標って『一般人に溶け込むこと』なんだぜー?」
「一般人て……無理じゃない?」
フェリスが一般人……それは、鳩の群れの中に猛禽を放つようなものだ。
今この瞬間にも、広場には何も知らない街の人たちがたくさんいるのだ。アレイさんとおれに向けられている殺気が、いつ周囲に向けられてもおかしくない。フェリスにはそういう危うさがあった。
「オレっちの努力をさ、そうやって簡単に無にするのってよくないと思うんだー」
ナイフをくるくる回しながら。
「しかもこれ以上、この歌劇団にいるのは危ないから、また寄生する相手を探さなくちゃいけなくなっちゃったじゃん。ここ、結構居心地よかったのに。ルゥナーかわいいし。もう、どれもこれもグレイスのせいなんだよ!」
なんだそれ?!
「だからー、オレっちは今から『アレイスター=クロウリー』と『ラック=グリフィス』の死体を持ちかえって、褒めてもらうことにしまーす」
弄んでいたナイフを手に収めたフェリスは本気だった。
ヤバい。
アレイさんがいつでも抜刀できるように構えたのが雰囲気で伝わってきた。
「じゃあ、最後に聞いていいかな、フェリス」
「んー? なにー?」
「フェリスはおれたちの死体を持ちかえって、誰に褒めてもらうの? 王様? それともケテル?」
「違うよ。オレっちを育ててくれたのはシアさんだよ。シンシア=ハウンド。えーと、役職名はなんだっけ……?」
その瞬間、全身の血がざっとひくのが分かった。
シンシア=ハウンドという名は、忘れ得ぬよう記憶に刻まれていたからだ。
それは、おれが漆黒星騎士団で修行していた時のこと。その頃、おれと同じ部屋で、同じように鍛錬した女性騎士が3人いたのだ。それが、ヴィクトリア=クラーク、メリル=ファランドル、そして――シンシア=ハウンドだった。
しかし、シンシア=ハウンドはグリモワール王国内部に入り込んだ密偵だった。そして、本来の姿である彼女を表す役職名は神官。
目の前で天使を召喚した彼女に、おれもリュシフェルを召喚して戦ったのだ。あれは、もう4年も前になるが、今でもありありと思い出せる。仲間だと思っていた相手を前に悪魔を召喚し、武器を向けることのつらさを。
「マルクトだよ。シンシア=ハウンドの本当の名前」
自分はマルクトだ、と言ったシアの声が耳から離れない。
「一緒に剣を学んだ、おれの友達だ」
ブログの右下でこっそりとキャラ人気投票始めました。
パソコン限定ですが、よかったらどうぞ。
http://lostcoin.blog.shinobi.jp/