第6話「灰とダイヤモンド」
何度も聞いた会話だった。見ているだけの会話だった。私に介入は許されず、結末はいつも同じだった。
階段を昇りきると、私は礼拝室へと向かう。神聖イルゲント帝国では、村や都市といった集落の統治者の住まいには礼拝室を設けなければならないという法がある。現代日本人的な感覚では、教会があるのに何でわざわざ、と首を傾げざるを得ないけれど、城館内の礼拝室は市井の民に開かれた──そしてディーゼ王国の末裔を捜し出すための──教会とはまた別の用途、目的をもって設えられた部屋だった。
礼拝室の中からしわがれた男の声が聞こえる。
「──聖歌を聴きたいと?」
ヘルムート司教の声だった。テオドールの父は尊大な口調、訝しそうな声色で礼拝室に己を呼び出した相手に問う。ああ、もう始まっている。あのイベントが始まっている。私は呪文の詠唱に入る。ロザリンドの習得しているもう一つの魔術、宝石魔術の亜種である召喚魔術の呪文だった。忘れ去られたはずの呪文を私は小声で唱え始める。本来ならば、宝石魔術用の石を使って事前に陣を描いておかなければ発動しない術だった。でも、このイベントが始まっているのなら、現界と異界を結ぶ陣は既に完成しているはず。
「……心がざわめくのです。白子である私には陽の光はあまりにも厳しく、夜に生きるほかありません。いえ、神を恨んでなどおりません。それが私の運命なのだと受け入れてはいます。ですが時折、耐えられなくなる。……司教殿、私に聖歌をお聴かせください。私のような異端者のそばにも神がおわすことを、どうか信じさせてほしい」
ヘルムート司教にそう答えたのは、客人として滞在中のメルヒオールという男だった。言葉とは裏腹にメルヒオールの声色には落ち着きがあり、心の迷いとは無縁であるかのように思えた。実際、その通りなのだろう。シナリオを何度も読んだ私はメルヒオールのこの長台詞に嘘があることを知っている。いや、彼の発した言葉自体には嘘など一つも存在しない。ただ彼はそれ以上に多くの真実を隠しているだけで。
「いいでしょう。いいでしょう。神の愛は平等ですからな」
ヘルムート司教の上機嫌な声はどこか嘲笑的でもあった。
白き異端者に乞われるままに司教は聖歌を独唱する。
彼は知らない。それが『神の子』を召喚する呪文であることを。
位の高い聖職者の唱う聖歌は呪文となる。
メルヒオールだけがそれを知っている。
──はずだった。
だけどここにはもう一人、それを知る者がいる。私だ。
そして私の方が先に呪文を唱え始めていた。
メルヒオールと私が知り、ヘルムートが知らないことは聖歌の正体だけじゃない。礼拝堂の窓を飾るステンドグラスには、異界のガラスが使用されている。異界、というのはファンタジー的な異世界のことではなく、四次元とか五次元のような、この世界と重なり合う高次元の空間のこと。『神』と呼ばれる存在もそのような異界の住人であり、満月に透かした異界のガラスの床に落とす影は召喚魔術に用いる魔法陣の代わりになる。礼拝室は現界と異界を繋ぐ扉であり、それこそが礼拝室の設えられた真の目的だった。
礼拝室に扉はなく、私の侵入を阻むものは何もない。
入り口をくぐれば、月光を透かすステンドグラスと床に落ちた鮮やかな影、それを挟むように立つヘルムート司教とメルヒオールの姿が見えた。明かりは一つも灯っていない。私の視線はメルヒオールに吸い寄せられる。月光に映える白く長い髪に、夜にとけ込むような黒衣。メルヒオールは私に気づき、腰に下げた長剣にすっと手を伸ばした。
呪文の完成は間近だった。胸中に迷いが生じる。もしも効果がなかったら。用意されたシナリオを逸脱するような行動は即座に打ち消されるかも知れない。兄の書いたシナリオから少しでも外れた瞬間に最初の場面からやり直し、正解を選ぶまで延々とループし始めるかも知れない。或いはここで呪文が発動したとしても、そしてシナリオを変えることができたとしても、時間をかけてゆっくりと本来の内容に戻るよう修正されていくかも知れない。私が何かをしたところで全部無駄になるかも知れない。そんな疑念が湧いてきて、自分のしようとしていることに自信を持てなくなる。
(……アホか。効果がない? だから何? ループする? それが何? 何をしても結局同じ結果になるだけかも? そうかもね。でもそんなことはそうなってから好きなだけ悩めばいい。効果がなかろうがループしようが、あんな末路を迎えるよりはマシ。私には破滅以外何もないのに、どうして躊躇する必要がある?)
私は呪文の詠唱を終えた。それは召喚魔術の初歩、異界の炎をこの世に喚び出す呪文だった。未熟なロザリンドに召喚できるものはそれしかない。だけど私にしてみればそれだけできれば充分だった。術を結んだロザリンドはヘルムート司教の足元に異界の炎を顕現させる。声を上げることもなく、異臭を漂わせることもなく、この世のものではない炎に包まれたヘルムート司教は一瞬にして灰になり、そして大粒のダイヤモンドが礼拝室の床に転がった。異界の炎で焼かれた者は、一瞬にしてダイヤモンドに変わる。それがこの世界の法則だった。人間の骨からダイヤモンドを作る技術は現実にも存在するけれど、目の前の床に転がるようなさくらんぼ大のダイヤモンドは一人分の骨では生成できない。それが大粒に変わるのは、灰だけでなく異界の力を基にしているからだった。
こうしてシナリオは変わった。顕現した『神の子』に心身を蝕まれるはずだったヘルムート司教が消えたことで、その息子テオドールと聖女アメリアの接点が消えた。神官騎士テオドールがアメリアに加勢しなくなれば、他の者たちの運命も変わる。シナリオの流れを修正するような力が働かなければ、ロザリンドの未来も違うものになるだろう。テオドールの唱う聖歌には呪文としての力は宿らず、メルヒオールのシルトにおける『神の子』召喚は失敗に終わった。
私は再びメルヒオールを見た。
ロザリンドに向いたメルヒオールの赤眼には怒りと殺意が宿っている。
だけど即座に斬りつけてこないのは、メルヒオールの有する知識が彼を縛っているからか。
私は緩やかな足取りでヘルムート司教の立っていた辺りへと歩を進める。
メルヒオールは動かない。ロザリンドは軽く顎を上げ、冷ややかな笑みを見せた。
「知っているのは自分だけだと思った? 神官騎士団長メルヒオール……」




