第10話「色とりどりの悪の華」
(テオドールを始末するかな……)
自分でも驚くほど冷ややかな思考が回り始める。
メルヒオールとのやり取りをテオドールは立ち聞きしていた。いつからなのかは分からない。私の手の中で光る禁断のダイヤモンドの基になったのがヘルムート司教であることを彼が知っているのかどうか、そこまでは把握できない。ただ、彼は私が、ロザリンドが、生きた人間をダイヤモンドに変えたことは知っているだろうし、この国の未来について『知っている』ことも知っている。ヘルムート司教は死の直前まで聖歌を唱っていた。その声は、普段の話し声とは違って朗々としていたから、階下まで聞こえていただろう。テオドールは先程こう言った。「僅かな声でも響くのですよ。お城暮らしのお嬢様はご存知ではありませんか?」──
……ゲーム本編を思い出す。テオドールルートの終盤のシナリオ。
召喚された『神の子』に寄生されて衰弱し、精神に異常を来した父ヘルムート。神官騎士団上層部と法王に欺かれていたことに気付いたテオドールは、父の仇を討つべくメルヒオールに一騎打ちを挑む。聖女アメリアの奇跡によって『神の子』の力を制御するすべを身につけたテオドールは、帝国最強の騎士と謳われたメルヒオールを撃破した。メルヒオールの超人的な身体能力は、密かに『神』と契約し、吸血鬼となることによって得たもの。人間離れはしていても、その力は『神の子』よりも更に小さなものに過ぎない。『神の子』に寄生されることなくその力を制御せしめたテオドールの敵ではなかった。
テオドールに力を与えたのは聖女アメリアの秘術だった。しかしアメリアが秘術を用いたのは、父を理不尽に奪われたテオドールの怒りと献身と、そして傲岸不遜な聖職者の偽りのない愛の言葉に心を打たれたからだった。
今、ロザリンドの背後に立つ彼が、令嬢の指の間できらめく禁忌のダイヤの『素材』について、どこまで知っているかは分からない。もしかしたら『素材』については気付いていないのかも知れない。彼のロザリンドに対する態度は夕方と特に変わっていないように見える。でも、油断はできない。たとえ現時点では何も知らないのだとしても、一部始終を目撃したメルヒオールがそばにいる。ダイヤモンドの由縁を知れば、テオドールは決して私を許さないだろう。
私は目だけを動かして、ダイヤモンドに視線を移す。
首に突きつけられた剣先の冷たさや硬さを感じたまま。
失われた未来では敵対していたはずの二人が私を挟んで言葉を交わす。
「……この娘は何者だ?」
「ハインリヒ伯爵の養女、名はロザリンド。皇帝陛下に反逆を企て十四年前に処刑されたバルシュミーデ男爵の娘にございます」
「随分と『自由』な気質の娘のようだな」
「まともに躾を受けていないのでしょう。我々も手を焼いております」
自由、と口にした時のメルヒオールの口調は皮肉げで意味深だったし、それに対するテオドールはいつにも増して嘲笑的な声色を隠そうともしなかった。
ロザリンドは再び瞼を伏せる。
ステンドグラスを透かした光がダイヤモンドをきらめかせる。
(一度くらいならこのダイヤモンドを使っても……多分、大丈夫なはず……)
ゲーム本編でハインリヒ伯爵が悲惨な末路を辿ったのは、幽鬼の数が多すぎたからだった。大勢の生きた人間を禁呪でダイヤモンドに変え、それらを利用したことで、伯爵を追う幽鬼の姿はさながら死霊の軍勢だった。幽鬼は盲目で、己を破滅させた者の気配のみを追いかける。その数が一体や二体なら、死ぬまで逃げおおせることも不可能ではない──という設定になっている。生涯を通じて見えない敵から逃げ回ることになるわけだから、周囲からは変人奇人、狂人の類と見なされるだろうけれど、それでも立ち回り方次第では幽鬼に殺されることはない。それにロザリンドのゲーム内での末路を考えれば、敵に捕らわれたときのための自殺手段という意味でも、あえて幽鬼にストーキングされておくのは悪い策ではないように思えた。
ただ、問題は──ロザリンドは再び目を伏せて、視線を真正面に戻す。
ステンドグラスの影の描いた魔法陣は何度でも使える。禁忌のダイヤモンドを用いれば、呪文の詠唱時間は大幅に短縮できる。具体的に言うと、最初の一節と最後の一節を唱えればそれで完成。ただ、問題は、首に突きつけられた剣。私が一言でも呪文を唱えればメルヒオールは容赦なくロザリンドの首をはねるだろうし、仮に殺されないとしても、詠唱が不可能になるような苦痛は避けられない。それだけではない。この剣にはもう一つの役割がある。それはステンドグラスの落とす影を遮ること。剣が邪魔をして魔法陣が歪んでしまい、今のままでは使いものにならない。
私は策を巡らせる。メルヒオールに剣を引かせるにはどうすればいいか。
(一体どうすれば私から、ロザリンドから離れてくれる? どうすればロザリンド以外のものに注意を向けてくれる? それは……、やっぱりロザリンドよりも警戒しなければならない相手が現れた時とか、ロザリンドの言うことよりも優先しなければならないような事態が起きた時とか? つまり……ロザリンドよりもテオドールの方がヤバいと思わせることができれば、メルヒオールは私からこの剣を離してくれる……)
私は再びメルヒオールを見上げる。
方向性は決定した。メルヒオールの剣をテオドールに向けさせる。でも、メルヒオールを騙すのは難しい。騙して踊らせるならテオドールの方。そう、ゲーム本編のようにテオドールが感情的になれば、メルヒオールもこの剣をテオドールに向けざるを得ない。そのために私がしなければならないのは、メルヒオールに対する敵意をテオドールに植え付けること。『神の子』召喚は失敗したし、ヘルムート司教を殺したのはロザリンドに違いないけれど、神官騎士団上層部や法王が今もテオドールを欺いていること自体は変わらない。その事実をテオドールに吹き込み、騎士団長に対する忠誠心を曇らせることにした。
ロザリンドは冷淡な微笑をメルヒオールに向ける。
「メルヒオール。あなたのせいでヘルムート司教はこんな姿になってしまったのに、その息子のテオドールによくそんな態度を取れるものね」
「神に仕える者として当然のことをしたまでだ」
「真相を知ってもテオドールはそう思ってくれるかしら」
何の前触れもなく唐突に、メルヒオールが剣を引いた。
声を上げる余裕すらもなかった。彼は私の腕を掴み、半ば抱き寄せるように、強引に立ち上がらせると、気付いたときには私の首に牙を突き立てていた。一体何が起きたのか、私には理解できなかった。痛みを感じ始めたのは、メルヒオールが首筋から口を離してからだった。床が崩れ、足がもつれる──その感覚は幻で、貧血による目眩のせいだと気付いたのはずっと後になってから。抱き寄せた私の身体をメルヒオールが手放した。私はてっきり礼拝室の床が崩れ始めたと思っていたから、メルヒオールの支えを失って、一瞬、とても強い不安に苛まれそうになったけれど、次の瞬間にはテオドールに背後から抱き止められていた。
朦朧とする意識の中、私はメルヒオールの声を聞いた。
「テオドール、この娘は殺すな。まだ使い道がある」
「しかし……」
「生かしておけ。すぐに戻る。父君の話はその時だ」
「……承知いたしました、メルヒオール様」
二人のやり取りと、遠ざかるメルヒオールの足音を聞きながら、私はうっすらと微笑んだ。廊下に響く靴音が完全に聞こえなくなる前に私の意識は消え失せる。身体はどこまでも無力なのに、この時心を占めていたのは安堵と強い確信だった。
──勝った。私はこのゲームに勝った。




