平和の裏に
数多くの高層ビルが並ぶ繁華街を、多種多様な民族の人々が歩いていた。急ぎ足で、みな顔は一様に疲れを浮かべ、中には無表情のまま、ふらふらと倒れそうになっている者までいた。道端にはダンボールを敷いて座り込み、その横には僅かに小銭が入った缶を置いていた。缶には「I need some help(助けがいります)」と書かれた紙が貼られていた。
そこから少し離れたところで、ひときわ高く、現代的なデザインが目立つガラス張りのホテルの一室から、インガ・アブラハムがタバコを持って街並みを見下ろしていた。わずかにウェーブがかった長い金髪を左右で分け、彫りの深いその顔をサングラスで隠していた。タバコを口に含み、ゆっくりと煙を吐き出すと、窓に映ったその顔が白く濁ったように見えた。軽いノック音が二回鳴ると、アイザック・ターナーがゆっくりと歩いてきた。アブラハムは振り返らず、タバコの煙を吐くと、低い声で聞いた。
「どうだ」
ターナーも自身のジャケットの内ポケットからタバコの箱を取り出すと、リズムよく降って中身を一本取り出した。
「変わりありませんね。相変わらず、平和なものです」
そう言って、タバコを口に咥えると火をつけ、煙をゆっくりと吐き出した。タバコを持つ右手の人差し指に、鈍く光る指輪があった。
「奴らに動きはあったんですか」
アブラハムがターナーの方に振り向き、眉をわざとらしく動かした。
「まだ何も感じんな」
「放っておいていいんですか。我らがその気になれば、大して時間はかからんでしょう」
ターナーが顎髭を撫でて、やや目を細めて言った。
アブラハムは近くの灰皿でタバコを消すと、近くの椅子に腰掛けて膝を組んだ。それほど巨躯ではないにしろ、服の上からでも十分にわかる体格の良さと、滑らかな生地のダークスーツとが合わさり、スイートルームの椅子に腰掛けたその姿は、まるで一つの絵画のような荘厳さを纏っていた。
「それは誤算だよターナー、我々だってただの人間さ。いくら強気に出ても、なかなか敵わないものだってある」
ターナーはアブラハムの言葉を聞くと、鼻で笑った。
「まさか。相手は所詮、老人や女の集まりでしょう」
「年の問題ではないよ、意志が途絶えぬ限り力は湧き続けるものだ。彼らにはそれがあり、事実破るのは厄介だということさ」
愉快そうな声で語るアブラハムに、眉をピクリと動かしてターナーが窓の外を見る。
「どうも、平和という言葉を口にしたものの、まだなんだか足りない気がしますね。そんな奴らがいるのだとすれば」
「ならば君は、平和とはなんだと思う」
アブラハムは立ち上がると、部屋の中を歩き始めた。
「不穏な空気のない、淀みのない世界。そこには不安や悲しみ、恐怖などないとしよう。それは一つの平和と言えるかもしれない。ところが、人間というのは面倒なやつでね、恒常的な喜びや幸せを享受して、誰もが豊かな暮らしをし始めると、必ずより良いものを求めるものが一定数現れる。衣食住こと足り、マイナスの要素はなにもないというのに、まだその先を求めようとする」
「それが人間の性というものでしょう。だからこそ、人々は発展を経て、今日まで絶え間ない進歩を続けてきたんです」
「そう、それは紛れもない真理だ。だが、バランスを保った世の中で、変化を起こそうとする者は必ず嫌われる。人間という動物は、元来変化が嫌いだからな。そこには不安とストレスが生まれ、再び安定を取り戻そうとする」
雄弁に語るアブラハムを見て、ターナーはタバコを吹かすと、ふっと笑い
「つまり平和とは”その”不安を取り除いた、一時的な時間だと?」
アブラハムは、ターナーを見て僅かに口角を上げた。
「必要悪というのは、いつの時代も必要なんだよ、ターナー」
ターナーはその言葉を聞くと黙ってタバコを灰皿に押し付けて消し、部屋を後にした。しん、とした部屋の中でアブラハムは再び窓の方に向かった。沈み始めた太陽がアブラハムのサングラスを山吹色に照らし、キラキラと光る彼のブロンドの髪は、そのまま消えてしまうのではないかと思うほど、差し込む光と同化していた。