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旅立ち

 水平線まで伸びるような草原の上を、満天の星空が包み込んでいた。月が明るく照らす中で、穏やかな風が草花を揺らし、さざめくその音がどこまでも幻想的な音楽のように響き渡る。幼い少年が、男の膝の上に座って星を指差していた。

「ねぇ、あのお星様って、どれくらいあるの」

少年は屈託のない声で男に聞いた。

「どれくらいって、数のことか」

少年はワクワクとした顔で元気よく頷いた。

「そうだなぁ…。ちゃんとした数は分からないけど、地球に住んでる人よりは多い、かもな」

「どうして」

少年は男の方を振り向き、大きな目を丸くして首をかしげた。男はその頭を優しく撫でて、高貴な動物に触れるように、ゆっくりと星空に向かって手を伸ばした。

「この世は果てしない、終わりが見えない。そして、世界に住んでる人の数だけ、この世界は存在する」

その言葉を聞いて、少年は段々と困った顔色を浮かべ、小さく唸り声をあげた。

「わかんないよぉ」

男はその声を聞いて軽く笑った。

「あぁ、分からなくていいさ。いずれ分かる」

さきほどよりも力強く少年の頭を撫でると、男はゆっくりと立ち上がった。少年は勢いよく立ち上がると、目の前の草原を無我夢中で駆け出した。


Eternal Reason 旅立ち


 いくつもの雄大な山々が連なり、その下を黄河から枝分かれした川が流れている。そのほとりに、寺院は存在した。人里から5キロくらいは離れているだろうか。一面には畑と畦道くらいしかなく、野鳥の鳴き声のみがこだましていた。

寺院の裏にある庭で、精悍な顔つきをした青年イクトが拳を突き出した。鷹のように鋭い目、凛々しく整った眉、それほど高くはないが、形の良い鼻。そしてざくばらんに切って揃えたような髪が、動作を繰り出すたびに揺れる。風を切る音ともにイクトが踏み込むと土埃が上がり、その上から水滴が落ちた。イクトの汗である。とめどなく出てくる汗は額から頬を伝い、踏み込むたびに地面に飲み込まれていった。

「はぁ!」

高く蹴り上げた足を静かに下ろすと、イクトは静かに、しかし大きく息を鼻から吸って、ゆっくりと吐き出した。段々と呼吸の感覚は長くなってゆき、両手をあげてからヘソのところへ持っていく。

イクトは足を揃えると、呼吸が整ったことを確認してから少しだけ目を閉じて、寺の柵にかけてあったタオルをとって額の汗を拭った。

「ふー…まだまだか」

そのまま寺院の縁側に腰掛け、空を見上げた。

真っ青な空を大きな雲が流れ、太陽がその隙間から汗で湿った髪を照らした。


 寺院の中で、祭壇を前に朱蓮華が座りながら供え物を整えていた。蓮華は齢三十八になる女性だが、その容姿はまるで二十代後半のように若々しく、凛とした美しさを秘めていた。艶やかな黒髪は後ろでまとめられ、左右の耳には飾りをつけ、鋭くも優しさを秘めた目が、彼女の神秘性を増していた。

「先生」

外の方から聞こえてきた声の方向を、蓮華は振り向いた。イクトが膝をついて、右手で左拳を包でんいた。包拳礼だ。

「終わったか」

蓮華が手で促し、イクトは包拳礼を崩さずに答える。

「はい。相変わらず、まだ分かりません」

蓮華が祭壇に向き直り、花に水をやった。

「ま、そうだろう。お前の実力で分かろうなんて、まだまだだよ」

蓮華の言葉に、イクトが少し困ったように笑った。

「それじゃ、明日ですね」

「そうだな、別に焦る必要はないさ。ゆっくり、着実に理解してこそ意味がある」

蓮華が立ち上がり膝のあたりを手で払った。

「私はこのあと、買い出しに行ってくる。まぁまずは着替えて来い。お前は勉強するなり散歩するなり、好きに過ごしてていいぞ」

「だったら俺も行きますよ。毎回先生お一人で、あの荷物の量は大変でしょう」

蓮華がわずかに首を横に振りながら

「いや、一人で行くよ。むしろその間、お前には自然を見て心を穏やかにしていて欲しい」

イクトが蓮華の顔をじっと見た。あぁ、こういう時は何を言っても断られるな。経験的にそうなることを、イクトは知っていた。ならば諦めよう、という風に小さく頷いた。

「わかりました、近くの山まで散歩に行ってきます」

「あぁ、夕方には戻ってこい。夕飯の前に一度稽古をつける」

「うっ」

イクトの顔が強張った。

「何だ、嫌なのか」

その反応を見て、不満そうに蓮華の眉間に少しだけシワが寄った。

「い、嫌ではありません…。ただ少し、逃げ出したくなるだけで…」

イクトは口から絞り出すように言葉にした。蓮華が稽古、と言うからには、そばでイクトの練習を見て注意をしつつ教える、ということではなく、もっぱら試合形式の組手をすることになる。となれば、イクトの実力では到底太刀打ちできるはずもない蓮華を相手にするということになり、ほぼ一方的に痛い思いをするだけなのだ。そのことが体に嫌という程染みついている彼にとって、「また滅多打ちにされる」というこれから確実に起こるであろう悲劇の前にすることが、どれだけその場から逃げ出したくってしまうのかは、想像にかたくなった。しかしそんなことは百も承知で、それでも愛弟子に一つでも多くの技を身を以て教えたいと願う蓮華にとって、イクトの反応は毎回不満が残るのだ。

「それを嫌だと言うんだ。まったく、そんなに苦しいことではないだろう」

「…そうですね…」

どんよりとした顔で下を向きながら冷や汗を浮かべてイクトは小さく答えた。ああ、こういう時の先生は、大抵稽古の激しさが増すんだ。数々の苦い思い出が脳裏をよぎって、ますますこの後が不安になった。

「心穏やかにしてこいって…そういうことか…」

イクトがぼそぼそと呟いた。

「穏やかでなければ稽古にならんからな!」

言い終わる前に蓮華はイクトの上をジャンプして通り過ぎ、そのままスタスタ歩いて行った。二メートルは飛ばないと、ああはいくまい。改めてその規格外とも言える実力の差を感じて、感心を通り越して呆れるように声が漏れた。

「…やっぱり俺はまだまだだな」

軽くため息をついて近くの山に向き直った。青空と野鳥の鳴き声が混じった風景が、自然の悠久な時の流れを語りかけてくるようで、自分の存在などちっぽけなものだと感じさせた。

その通りだ。例え今日うまくいかなかったとして、また明日頑張ればいい。結果が出るまで、何か自分の中で確信を持つその日まで、俺はただ拳を鍛え続けるだけだ。そうして今日まで、やり続けてこられたじゃないか。

イクトは改めて自分のやるべきことを再確認した、といったふうに、表情を明るくさせた。無意識のうちに早足となり、寺院内の小部屋へと向かった。汗で湿った伝統的な中華服を脱ぐと、引き締まった筋肉質な身体が見えた。腕はゴツゴツとはしていないが、滑らかな隆起があり、腹筋はうっすらと六つに割れている。これもすべて、蓮華の厳しい指導があってこそのものだ。たんすから白いシャツ、紺色のジーンズを出した。夕方には少し肌寒くなるだろうか。いや、まだ日の出る時間も短くはないし、歩いて行くのだから十分体は暖まるだろう。シャツのボタンを閉め終えると、近くにあった茶色い厚手の革靴に履き替えた。

外に出て再び山を確認し、小さく伸びをすると、ゆっくりと走りだして向かっていった。

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