あなたを
「海に行きましょう。」
珍しく、彼女から外出の誘いがかかった。普段は僕からばかり誘っていたので、驚きはしたものの嬉しさのほうがずっと勝っていて、何も考えずにうなずいていた。遠出するとき、彼女は必ず海に行きたがった。
「車で行く?」
「いいえ、歩いていきましょう。こんなに空が澄んでいるんだもの。」
夜空の下の散歩なんてのもたまにはいいでしょう、と彼女はほほえんだ。なぜだか僕は彼女の頬を涙が伝った気がした。
「ほら見て、星の光が鮮やかよ。」
彼女の言葉につられるようにして首を反らす。思わず感嘆の声がもれた。
空は宝石箱をひっくり返してしまったかのように、きらきらと、華やかに闇を彩っていた。東の空には、たった今顔を出したのだと言わんばかりの大きな月が丸く浮かんでいる。
不意に彼女が右手を差し出した。白くて綺麗な手だ。その手をとり、指を絡ませる。彼女の手は、いつもよりひやりとしていた。
いつもより彼女の歩調は緩やかだった。まるで、道を踏みしめ、その感触を楽しんでいるかのように。僕は気づかなかったけれど、僕らが家を出る前は雨が降っていたらしい。アスファルトが黒く濡れていた。たまに、スニーカーの先が水をはじき、小さな音を立てていた。
「…い。」
彼女が何かつぶやいた。
「どうしたの?」
なんでもないわ、と彼女がゆるりと首を振る。本当になんでもないのよ、と彼女はまたくしゃりと顔をゆがませた。悲しさ、優しさ、愛おしさ…、彼女の表情はそれらを集めて固めたかのようだった。僕は、ひどい胸騒ぎを感じた。
車で十五分ほどの道を、僕たちはゆっくりと歩いた。互いの指先から、二人の体温が溶けて混じっていくような気がした。左手から伝わる熱が心地よくて、このまま二人でどこかへ行けたらなんて、ありもしないことを想像した。
どれくらい歩いただろう。潮の香りがふと鼻をくすぐった。
「海、もうすぐだね。」
「ええ。」
彼女は目を細めた。
靴を手に、足を砂に下ろしてみる。砂はまだ昼の熱を残していた。ゆっくりと波打ち際に近づく。小さな波が柔らかく足元の砂を奪い、ほんの少し体が沈んだような気がした。
あのね、と彼女がつぶやいた。
「私、あなたに伝えなければいけないことがあるの。」
ひゅっと心臓が縮まる。思わず耳をふさぎたくなる。
ああ、聞きたくない、言わせたくない、
聞いてしまったら君が、どこか遠く、それこそ僕の手なんか届かないところへ行ってしまいそうで怖くなる。
離れたくない。
ずっと一緒にいたい。
「…どうしたの?」
君が何かを語ろうとしているならば、僕はそれを聞かなければならないだろう。自分勝手に耳をふさぐなどあってはならないだろう。
迷うようなそぶりはまったく見せず、何度も練習したかのような口調で彼女は言った。
「私、人間じゃないの。」
少し間が空いて、人魚の出来損ないみたいな、と寂しそうに笑った。
信じられなかった。聞かなければ良かった。
「そんなこと…!」
彼女の目は悲しげに細められていた。まっすぐな、うそをついているとはまるで思えないような目が、ただ僕を見つめていた。
「…そうなんだ。」
どうして君を疑えるだろう。そんな目で見つめられて、君を疑うなんてできるわけがないだろう。
「君と初めて出会ったのは海だったよね。なんて綺麗な人なんだろうって思った。僕は君を初めて見たその瞬間から、君に惹かれ始めた。」
彼女の目が、黒く濡れながら月の光を吸い込んだ。
「私、ずっと自分が嫌いだったわ。人間でも人魚でもない中途半端な存在。海から遠く離れると消えてしまう、海に縛られた存在。自分と時を同じくして生まれた波が死ぬ頃に自分も死んでしまう。私、自分も海も大嫌いだったの。」
彼女の目から大粒の涙が零れ落ちた。白い砂浜の一部分が黒く濡れた。彼女はとめどなく涙を流し続ける。
「私、初めて自分を好きになれたわ。」
たまらず彼女の体を抱きしめた。どこにも行かないように、行けないように。彼女の体は熱く、頼りなかった。
「私、とても幸せよ。」
耳元で小さく聞こえた。静かに唇を重ねあわせる。
「愛してる。」
やっとのことでそれだけを口にした次の瞬間、ふっと腕から感触がなくなった。手のひらを頬にあててみると、海風が冷やした体を彼女が温めてくれているような気がした。
「また来るよ。」
柔らかく鳴り続ける波の音が、僕の耳に優しく響いていた。